千歳が亡くなった後、私は千歳の霊を何度か見たり気配を感じたりしたが、千歳の夢を見たことは一度もなかった。夢で逢いたいとどれほど思ったかしれない。けれど今日に至るまで、千歳の夢は一度も見ていない。

対照的に福千代の霊はたぶん見ていないが(もしかしたら一度だけ見たかもしれない)、夢は何度か見ている。

最初の夢はこうだった。私が夜ベッドで横になっていると、福千代が寝室のドアの向こうで、「開けてー、開けてー」と鳴いている。新しい家に猫ドアはないものの、ドアはいつも少し開けてあるので、前足をちょっと使えば簡単に入れるはずなのに、なぜか苦戦している。ベッドから降りてドアを開けてやると、恐ろしいことに福千代の後ろ足が2本とも、下半分がなくなっていた。出血はしていない。しかし切断されたように見える先端部分の皮膚は薄く、毛もほとんど生えていなくて、痛々しかった。「福ちゃん! どうしたの、その足⁉」と叫んだところで目が覚めた。

夢で逢えたのは嬉しかったが、初めて見た夢があれでは、とても喜べない。なぜあんな夢を見たのか、あの夢には何か意味があるのだろうかと考えてみた。

福千代が逝ってから、私はあの子がつらい思いをしないように、なるべく泣かないようにしていた。しかし18年も一緒に暮らし、自分の半身のようになっていた福千代の存在は大きく、その喪失感は半端なものではない。福千代が使っていた食器を見ては泣き、福千代が寝そべっていたマットを見ては泣いた。飼い主があまり悲しんでいるとペットは心配であの世に行くことができないと何かの本で読んだことがある。私があまりにも泣いてばかりいるので福千代は行くべき所へ行くことができないのではないだろうかと思った。

それから私は前にも増して泣かないように努力した。福千代の足を引っ張ってはいけない、あの子の幸せを邪魔してはいけないと必死で自分に言い聞かせた。

次に見た夢では、亡くなった母が福千代の世話をしてくれていた。「福ちゃんのトイレ、これでいい?」と母が準備したトイレは、大きさが6畳ほどもあるトイレシートだった。現実の世界では売られていないその巨大なシートの上を、福千代は走りながら勢いよく放尿していた。その量は一匹の猫が一度に出す限度をはるかに超えて、たぶん2リットルはあったと思う。なんとも奇妙な夢だったが、福千代の足は元通りになっていて、元気いっぱいに走り回っていた。亡くなった母が福千代の世話をしていたということは、やっと天国に行けたということなのだろうか。

3回目の夢でも、またトイレが出てきた。今度は普通のプラスチック製の猫用トイレだったが、福千代は入ってすぐに出てきたので、私はまた膀胱炎になっておしっこが出なくなったのではと心配になった。トイレを覗くとすみの方の砂が濡れていたので、量は多くないがちゃんとおしっこが出たことが分かってほっとしたという、地味で現実的な内容の夢だった。

4回目の夢で、私はドアの前に立っていた。ドアの向こうには福千代がいるような気がしていた。ドキドキしながらドアを開けると、そこは広い体育館のような場所で、一番奥に福千代の姿が見えた。感極まった私が泣きながら「福ちゃん!」と呼ぶと、福千代は私に向かって歩き始めたが、ドアまでの距離がかなりあるので、福千代がまだ遠くにいるところで夢は終わってしまった。

これらの夢には一連のストーリーがあるように思える。

福千代はもう一度私の所に生まれ変わろうとしているが、そのためにはいったん天国に行かなければならない。しかし私が泣いてばかりいるのでこの世を去ることができずにもがいている。

私があまり泣かなくなったのでようやく天国に着く。体の中の悪い物がおしっことともに全部出て、もうどこも悪くない。痛いところもない。元気いっぱいだ。私の所に生まれ変わることになっているけど、まだもう少し時間がかかる…という話だ。

夢というのは単にその人の願望が見せた映像なのかもしれない。福千代を失って失意のどん底にある私の潜在意識が、どうにか自分を立て直そうと作り上げた都合の良い物語なのかもしれない。それでもかまわない。いつか福千代が戻ってくる。そう思うだけで随分救われた。「福千代はもういない」という思いが「福千代が帰ってきたら…」に変わるだけで、どれだけ力が湧いてくることか。それに私はごく稀にではあるが予知夢を見ることがある。あの一連の夢が福千代からのメッセージとか予知夢の類ではないと、100%否定することはできない。

ペットと飼い主の絆があまりにも強いと、ペットの短すぎる寿命のせいでその絆に見あった時間を過ごすことができない。だからペットが同じ飼い主のところにもう一度生まれ変わることもあるのかもしれない。

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