福千代からのプレゼント?

福千代がこの世を去って、私は悲嘆に暮れていた。それでも千歳の時ほどの凄まじい苦しみではなかった。“死”に対する考え方があの頃とは随分変わったからだ。千歳は死後も度々私の所に来てくれた。その経験から動物も死ぬと魂が残るということを知った。苦しみの原因となっていた肉体を脱ぎ捨てて魂は自由に飼い主に会いに行くことができるのだから、死は悲劇的なものではない。残された者にとってはつらいけれど、本人にしてみれば自分の役目を十分に果たし終えて満足しているかもしれない。

それに千歳は死後自分の後継者を連れてきた。福千代がすぐに生まれ変わって私の所に戻れないなら、同じように後継者をよこすかもしれない。千歳が逝って福千代が来るまで4ヶ月と4日だった。福千代が逝って同じ期間が過ぎた日、もし猫が私の前に現れてかつての福千代のように強引に家に入り込もうとしたら、あるいは怪我をして道端でうずくまっている猫と出会ってしまったら、それは新しく迎え入れるべき猫なのかもしれないと思っていた。

そのため”その日”が来ると、朝から何となくソワソワしていた。しかし買い物に出かけても猫とは一匹も出会わなかった。家にいても猫の鳴き声一つ聞こえてこない。

夕方近く、窓を開けて庭を眺めた。以前一度だけ、福千代によく似た猫を庭で見かけたことがあった。私は思わず「福ちゃん」と声をかけたのだが、その猫は振り向いたものの、すぐにうちより一段低くなっている隣の敷地に降りてしまったので、姿を見たのはほんの数秒だった。しかし尻尾が福千代と同じ鍵尻尾だったのははっきり見て取れた。一瞬福千代の霊なのかと思ったが、福千代なら私から逃げるはずはない。それに私は何度か千歳の霊を見たが、時間は決まって夜中だった。昼間の明るいところで霊を見たことは一度もない。あれは福千代によく似た別の猫なのだろう。しかし福千代じゃないにしてもあの猫をもう一度見たいという気持ちは強く、私はこの時も窓を開けてあの猫が来ていないかと庭を見渡した。けれど猫はおろか、鳥もリスも、動物は一匹も見当たらなかった。

少しがっかりして窓の近くに目を落とすと、雑草が少し生えているだけの荒涼とした庭に、赤紫の小さなペチュニアの花が一輪咲いていた。不思議だった。庭はいずれたくさん花を植える予定ではいたが、まだ何も植えていなかった。鳥や風に種が運ばれて発芽する植物は多いが、ペチュニアはホームセンター等で苗や種を買ってきて植えないかぎり自然に発生するのは難しいだろう。以前山に住んでいた時、何年も花壇にペチュニアを植えていたが、種がこぼれて近くに新しい苗ができたということは一度もなかった。私の前に誰かがこの土地に住んでいたというのであれば前の住人が植えたものの根や種が残っていたと考えられるが、この土地は今まで一度も人が住んだことがなく、したがって誰もペチュニアを植えていないのだ。しかも石だらけで乾ききった土地によく根付いて花を咲かせたものだと感心せざるをえない。

前日は間違いなく花は咲いていなかった。花があったのは寝室の掃き出し窓のすぐ前だ。毎朝雨戸を開ける時にいやでも目に入る所なので、あれほど目立つ色の花が咲いていれば必ず気付くはずだ。花は“その日“に初めて咲いたのだ。

もしかしたら福千代からのプレゼント?「今日じゃないよ。まだ先だから今はこれで我慢して」というメッセージ? などと勝手に解釈してしまった。

このペチュニアは数日後鉢上げをして、冬の間は室内で育てたのでこんもり葉が茂り、3月には花が咲いた。花の手入れをしていると、いつも福千代が横で私のやることを見ていたのを思い出す。今も私の横にいるのだろうか。私には見えないが、垂れ下がる花にじゃれついているのだろうか。そう思うと半分明るい気分になるが、もう半分はやはり寂しい。姿が見たい。声を聞きたい。それが叶うのはいつになるのだろう。

私に春が来るのはもう少し先のようだ。

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