武千代

せ⊃さんによる写真ACからの写真

福千代は一人っ子でいることを望んでいるし、私も愛情の全てを一匹に捧げるのが性に合っていると思うのだが、一度だけ、もう一匹飼うことを真剣に考えたことがある。

職場の駐車場にはいつも数匹のノラ猫がいた。人を警戒して1メートル以上近づくと逃げてしまうので一度も触ることはできなかったが、猫好きとしては毎日のように見かける猫たちに親しみを感じるのは当然だった。

夏の終り頃、そのうちの一匹が動くこともできず、駐車場の隅で雨に打たれて横たわっていた。出血はないので事故ではないようだが、一刻も早く病院で診てもらわねばならないと思った。仕事中だったがその子を車に乗せ、いつも福千代を診ていただいていた病院に連れて行った。

先生の診断では膀胱炎ということだった。以前福千代もそうだったが、結晶化したおしっこが詰まって出なくなっていたため、尿管にチューブを入れて吸い出すと、血が混ざった大量のおしっこが出てきた。しかしかなり長い時間尿がたまっていたので腎臓にダメージがあり、助からないかもしれないと言われた。容態が安定するまで入院することになった。

私は福千代が何度か同じ症状になり、その都度回復したので、その子もきっと助かるだろうと楽観していた。

それで回復して退院した後のことを考えた。もといた駐車場に戻せば簡単だが、駐車場の前の道路は交通量が多く、事故に遭う危険がある。私のことだから一度保護した猫には情が移ってしまい、その子を危険な場所に戻すことなどできるはずがない。車にひかれたりしないか、お腹が空いていないか、寒くないか、ノミに悩まされていないかなど、気になって仕方がないだろう。そんな心配で四六時中心を悩ますぐらいなら、家に連れてくる方がよっぽどいい。

方法はある。家の中に入れると福千代が嫌がるだろうから、ホームセンターで犬小屋を買ってきて庭に置くのだ。犬小屋の中には低めの段ボール箱を入れ、寒くなったらその中に毛布を敷けば、元ノラにとっては悪くない環境だろう。福千代がその子を認め、家に入ることを許すようになれば、いずれ家の中で飼うこともできるかもしれない。

そうと決まれば名前を付けなければならない。黒猫なので「クロ」でいいかとも思ったが、あまりにも安易なので考え直し、「武千代(たけちよ)」にした。福千代の弟になるわけだし、黒くて強そうだったので、武千代がぴったりだと思った。字は違うが、家康の幼名と音が同じだ。良いではないか、良いではないか。

仕事帰りに武千代を病院に見舞った。その日は起き上がって水を少し飲んだというので、もう大丈夫だと思った。横になっている武千代のお腹を撫でた。元気な時は人間を警戒して近づくと逃げていたが、今は私が撫でると気持ち良さそうに目を細めている。

私が来る少し前、病院の女性スタッフが触ると「シャー!」と威嚇して引っかいたそうである。私にだけは心を許したということか。武千代を愛おしく思う気持ちが沸々と湧いてきた。武千代の黒くて柔らかい頬を撫でながら「あんたはもうウチの子だよ、武千代」と、付けたばかりの名前を呼んだ。

しかし数日後、武千代が息を引き取ったとの知らせが病院からあった。仕事を終えて病院に行くと、トイレシートにくるまれた武千代の遺体が台の上に置かれていた。私は武千代を抱きしめ、声を立てずに泣いた。

翌朝ペット霊園で火葬することにして、その夜は武千代を家に連れて帰った。武千代にとって最初で最後の“わが家”だった。

座布団の上に横たわる武千代の遺体に福千代が近づいた。私が「福ちゃんの弟になるはずだったんだけど、病気で死んじゃったんだよ」と言うと、顔を近づけて少しだけ匂いをかいだ。病院ではノミはいないようだと言われたが、武千代の体をノミが這うのが見えた。もうかゆみは感じないはずだが、動くことができなくなった体にノミがたかるのが忍びなく、櫛ですいてできる限りノミを駆除した。そのあと武千代の体を撫でながら助けてあげられなかったことを詫びたりしたが、横でこれを見ていた福千代が嫉妬の感情を表すことはなかった。いつもおしゃべりで頻繁に私に話しかけるのに、武千代を前にした福千代は寡黙で、一言も声を発しない。それは私が武千代の体に触れたり話しかけたりしたことでショックを受けたとか無言で抗議したとかいうことではなく、明らかにいつもの日常とは違う何か厳粛なものを感じ取って黙しているようだった。

以前M荘にいた時、ノラ達が千歳の死を知って姿を見せなくなったのと同じように、福千代もまた死者に対して敬意を払っているのだと思った。

今、武千代の遺骨は千歳が眠る、海に程近い墓にある。

           千歳が死んだあとノラ達は……  猫の不思議

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