福千代は甘えん坊だった。福千代が外から帰ってくると、私は無事に帰ってきてくれたことを感謝し、「福ちゃん、おかえり~」と抱きしめ、頭を撫で頬にキスをし、また抱きしめるといった長い儀式を行っていた。しかし山に移ってからは、家の周りが安全で事故に遭うことはまず考えられなかったので、「おかえり」と言葉だけで済ませることが多くなった。
しかし福千代はそれを許さない。儀式をやるまで「ただいまー、ただいまー」とうるさく鳴き続ける。私は折れて福千代を抱きしめて背中をなで、顔を両手ではさんで福千代の目を見て「おかえり」と言い、頭にキスしてまた抱きしめたりする。これぐらいやると福千代は満足して静かになるのだが、これが出勤前の忙しい時間だと私は遅刻ギリギリか、もしくは遅刻してしまうのだ。
もう一つ厄介だったのが、外へ出るのに私に玄関のドアを開けさせようとすることだった。私は福千代がいつでも自由に出入りできるよう、裏口と寝室とリビングに猫ドアを取り付けた。普段それを使っているのに、毎朝私にドアを開けてと言うのだ。
長いこと一人暮らしをしていると、出来ることは何でも自分一人でやらなければならない。時には一人では不可能と思えることでもやらなければならない。そんな人間にとって、自分でできることを人にやらせようとするのは納得がいかないのである。
ある朝私はイライラして「何のためにこのドアを付けたと思っているの? いちいち私にドアを開けさせないでよ」と意地悪な口調で言ってしまった。
数日後、福千代は食欲がなくなり、元気もなくなった。フローリングの床に横たわっていた福千代の前に小さな水たまりができていた。おしっこだった。以前患った膀胱炎が再発して自力でおしっこが出せなくなり、膀胱からおしっこがあふれ出てきたのだ。
急いで病院に連れて行くと、先生は尿管にチューブを入れて、溜まった尿を吸い出してくれた。大量に出てきた尿には血が混ざり、真っ赤な色をしていた。
膀胱炎の原因ははっきり特定できないが、ストレスも一因と言われている。福千代の今回の膀胱炎はストレスが原因で間違いないと思った。私があの日キツイ言い方をして、それでひどく傷ついたに違いない。
「ごめんね、福ちゃん。ごめんね」私は泣いて謝った。病院で見た、あの真っ赤なおしっこを思い出すと心が痛み、涙が止まらなかった。
このことがあってから私は福千代の要求を全て受け入れ、徹底的に甘やかした。福千代を傷つけて病気にするなど、絶対にあってはならない。
福千代が何か訴えるような鳴き方をすれば飛んで行って「はい、何でしょう?」とか「はいはい、なんでちゅか?」などと御用を伺い、出来る限り福千代の意に沿うようにした。
福千代がテーブルの上に飛び乗ってくれば、「お行儀が悪いですよ」と言いはするものの、降ろすこともせず、頭や顔をなでたりするので、福千代は「お行儀が悪いですよ」は誉め言葉と思っているかもしれない。
私にとって一番大切なのは福千代の健康だった。それを守るためなら、私は乳母にでも奴隷にでも喜んでなろうと心に決めた。