猫は義理堅い

昔家庭教師で通っていた家にビューティーという名の雌猫がいた。当時の私は猫好きではあるが猫を飼ったことがなく、猫にひどく飢えていた。そのためビューティーが勉強部屋に入ってくると嬉しくてたまらず、授業そっちのけでビューティーに話しかけ、膝にのせて撫でまわしていた。私の猫愛を熟知していた生徒は、連続で宿題をサボって私の機嫌が悪くなっていると襖を開けて「ビューティー! ビューティー!」と猫の名前を連呼し、やってきた猫を私の膝の上にのせた。私はその手にのるものかと冷ややかな態度を保とうとしたが、猫の愛らしさに勝てるはずもなく、相好を崩してデレデレしてしまうのであった。

中学生の授業は大抵夜の7時から9時までなので、帰る時は外灯が近くになければ真っ暗である。門を出てブロック塀の脇にとめてあったバイクの鍵穴に手探りでキーを差し込むと、上から「ニャー」という声が聞こえた。見るとビューティーが塀の上で香箱座りをしている。私は「あ、ビューティー、そこにいたの?」とビューティーの頭を撫でた。暗かったのでビューティーの存在に気付かなかったのだが、暗闇でもよく見えるビューティーは無言で私を見送ることを良しとせず、「お疲れさま」だか「バイバイ」だかわからないが、とにかく挨拶してくれたのだ。私はこの時初めて、猫にも礼儀というものがあることを知った。

あれから約10年後に我が家にやってきた福千代も、ビューティーと同じく飼い主以外の人間にも礼儀正しい猫だった。

山の上に住むようになって9年目のことである。斜向かいのNさんが引っ越すことになり、日曜日に挨拶に来てくれた。

Nさんには本当にお世話になった。私は山に移って数か月後に失業する羽目になったのだが、次の仕事を探そうにも田舎のことなので事務職の正社員募集などあまりなく、失業手当が打ち切られるギリギリのところでやっと週3日のパートの仕事にありつけた。

週3日では当然収入は少なく生活は苦しかったが、Nさんは自宅でやっている保養所の仕事を忙しい時に手伝ってくれないかと申し出てくれた。営業するのは主に週末と祝日、お盆と正月で、私の仕事は出来た料理を盛りつけてテーブルに運んだり、食べ終わった食器を下げて洗うぐらいのことだった。お客さんが食事をしている間はキッチンでお菓子を頂きながらおしゃべりをしているという、非常に楽で割のいい仕事だったので、収入が少なかった私にはとてもありがたいことだった。

そのうえNさんは畑で収穫した野菜やご主人の実家から送られてきたイクラやホタテなどの海産物、お客さんのお土産の美味しいパンなどを頻繁に分けてくださったので、私は正社員に昇格するまでの間、飢えることなく生き延びることができた。

Nさん宅の玄関前に木のベンチがあったが、福千代がよくそのベンチで日向ぼっこをしていたという。Nさんは福千代の横に座り、煮干しなどをくださったらしい。

そのNさんが引っ越して遠くへ行ってしまうのは非常に寂しかった。福千代も同じ思いだったに違いない。

後日Nさんと電話で話した時に知ったのだが、Nさんが挨拶に来た日曜日の夜遅く、福千代はNさんの家に行ったらしい。

その日は昼間は良く晴れていい天気だったが、夜になるとかなり強い雨が降り出した。Nさんは猫の声がするのでドアを開けたところ、びしょ濡れになった福千代が座っていたらしい。驚いたNさんはタオルを持ってきて福千代の体を拭いてくれたが、いつもは体を触られるのを嫌がって逃げていくのに、その夜はおとなしくされるままになっていたという。

あの日、昼間Nさんが家に来た時、福千代も傍にいた。そしてNさんが「福ちゃん、元気でね」と何度も言うのを聞いていた。Nさんがいなくなることを福千代は理解していたのだ。そして別れの挨拶をするために夜遅く、どしゃ降りの雨の中を出かけて行ったのだ。

猫が薄情だというのは大間違いである。猫は義理堅く礼儀正しい。また人の気持ちをよく理解し、つらい時は慰めてくれる。猫がこのように「心」を持った存在であることを知ると、もはやただかわいいだけのペットとして見ることはできない。いじらしくて愛おしくて、純粋な分何よりも尊く思える。

猫嫌いの人に猫を好きになってと言っているわけではない。けれど人間と同じように「心」を持つ生き物なのだから、物のように扱うことだけはやめてほしい。猫だけでなく、犬も、他の動物も。自分がされていやなことは動物にもしないでほしい。永久に叶わぬ夢だと思うが、地球上のすべての動物が大切にされて健康で幸福に暮らすことが私の一番の願いなのだ。

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