下血は止まったものの、下痢はなかなか治らなかった。日に何度も下痢をし、夜中にトイレを往復することもあった。福千代は体がトイレの中に入っていてもお尻が少しはみ出していることがあり、時々トイレの外にやってしまう。そのため私は福千代がトイレに行くたびに付き添い、必要な場合はお尻を少し押してトイレ内で排泄させていた。
下痢や軟便の時はトイレで構えてすぐに出てくるが、硬くて正常な便の時は出るのに少し時間がかかる。なので福千代がトイレで構えてすぐにモノが出てこないと期待に胸が膨らむ。(ああっ、これはもしや良いウンチなのでは…)そして期待通りのものがゆっくりゆっくり出てくると、涙が出そうなほど嬉しくなり、「福ちゃん、良いウンチだよ、すごくいいよ、がんばって!」と、まるで出産中の妊婦さんを励ますような声かけをしてしまう。
無事にお産みあそばした後はすぐにトイレットペーパーでお尻をふき(福千代は中年期あたりから排泄後に自分のお尻をなめなくなっていた)、出来立てほやほやのウンチをシャベルですくって人間用トイレに捨てに行った。途中、臭いので鼻で息をしないようにしていたが、健康的で立派なウンチに見とれながら、「良いウンチだ。良いウンチだ」と独りごちた。
この頃、私の幸せは福千代のウンチ次第だった。ウンチがゆるければ気分は落ち込み絶望的になり、硬いウンチが出れば前途は明るく幸福感に満たされた。
下痢便だとトイレ掃除に手間がかかったが、福千代の世話ができるということは幸せなことだった。それは千歳が死んだ時にいやというほど思い知らされた。してあげられることがもう何もないのだと気づいた時のあの虚無感…生きている意味がなくなったとさえ思った。
私はこれまで福千代からどれだけの幸せと力をもらったかわからない。どんなにつらい時も苦しい時も、福千代がいたから乗り越えられた。福千代がいてくれたから生きてこられたのだ。福千代が与えてくれたものに比べれば、世話をする苦労など千分の一にもならない。少しも大変とは思わない。そのことを私は昔から福千代に言い続けてきたが、病状が悪化してからは頻繁に言うようになった。福千代は人に気をつかう猫だった。もし自分のせいで私が疲れていると感じたら、すぐに逝ってしまうような気がした。それを避けるために私はひたすら言い続けた。福千代の小さな頭をなでながら、申し訳なさそうに私を見上げるその愛しい目を見つめながら
「福ちゃんの世話をするのはママの生甲斐だよ。だから少しも大変じゃないんだよ」と、繰り返し…繰り返し……