ラスプーチンとは何者だったのか

不思議

先月コロナ予防接種2回目を受けた。前回の時と同様、腕の痛みがあったが、それ以外は大した副反応はなかった。とはいえ接種した翌日の昼近く、熱が出そうな感覚があった。体温計が壊れていたので計っていないが、少し熱っぽい。ひどくなる前に食事をしてしまおうと、冷蔵庫にあるもので簡単な昼食を作って食べていると段々気分が良くなり、洗い物を終えたころには熱は下がったようだった。昔から熱には強い方で、38度あっても出勤し、仕事をしているうちに平熱に近いところまで下がったりしていたが、ワクチンの副反応による発熱はそう簡単に下がらないと思っていた。しかし食事をしただけで下がったことに自分でも驚き、驚異的な回復力がラスプーチンのようだと思った。

ラスプーチンとは帝政ロシア末期に宮廷に現れた修道士で、血友病だった皇太子アレクセイの病状を祈りで改善させた神の使いとして皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后から絶大な信頼を得ていた。僧侶のくせに漁色家で政治にまで口を出すようになったラスプーチンに敵は多く、皇帝の義理の甥ユスーポフ公爵らによって暗殺された。

しかしこの暗殺は簡単にはいかなかった。ユスーポフ公はラスプーチンを自邸に招いて青酸カリの入った菓子を勧め、空腹だったラスプーチンは次から次へとこれをほおばり、同じく青酸入りの酒を何杯も飲んだ。しかしいつまでたっても毒の効き目が現れない。食べ始めて2時間以上がすぎたころ、ようやく変化が現れた。ラスプーチンは喉に手をやり「気分が悪い」と言うと、ユスーポフ公は「医者を呼んでくる」と、仲間の一人を呼びに行った。ユスーポフ公がピストルを忍ばせた仲間を連れて地下の部屋に戻ると、ラスプーチンは長椅子に体を沈めて苦しげな呼吸をしていた。彼はユスーポフ公が連れてきた見知らぬ男に「お前は医者か?」と尋ねた。男がそうだと答えると、「もう用はない。ワインを1杯飲めば治るだろう」と言って、ユスーポフ公が差し出したマデーラ酒のグラスを飲み干した。そして大きく息を吸い込み、やおら立ち上がると「ジプシーの所へ行こうじゃないか。先生も一緒に行こう」と、大好きな歓楽に暗殺者たちを誘うのであった。

ラスプーチン暗殺現場

この時ラスプーチンは100人以上を殺せる量の青酸カリを飲んでいた。しかし一時具合が悪くなっただけで、すぐに回復してしまったのだ。もはや毒では殺せないと思った暗殺者はピストルでラスプーチンの胸を打った。弾は心臓を貫通していた。ラスプーチンは倒れてしばらく体を痙攣させたのち動かなくなった。この時なぜか屋敷の電灯が消えて、また点いたそうである。

2人の仲間が偽装工作のために出かけたあと、ユスーポフ公は死体のある部屋に戻った。すでに死亡が確認されていたが、死体に近づき脈を取ってみた。反応はない。抱き起して肩を揺さぶってみた。ぐらぐら首が揺れ、床にどさりと倒れ落ちた。するとその瞬間、死体の目が開いた。いや、もはや死体とは言えない。ラスプーチンは息を吹き返し、自分を殺そうとたくらんだ若い公爵に襲いかかり、ものすごい形相でその首を絞めた。

ユスーポフ公は力を振り絞りやっとのことでラスプーチンの手を振りほどくと、階段を駆け上りながら「生きている! まだ生きてるぞ」と叫んだ。その声を聞いた仲間二人があわてて階段を下りていくと、あえぎながら両手で手摺にしがみついて階段を登ろうとする血まみれのラスプーチンがそこにいた。地獄から蘇った彼はあたかも邸の地理を知り尽くしているかのようにためらうことなく中庭に通じるドアを開け、闇の中に消えて行った。「まさか! こんなことがあってたまるか!」とユスーポフ公が叫ぶ。そのドアは万一の逃走に備えて念入りに鍵をかけておいたからだ。

暗殺者たちは必死で追いかけた。ラスプーチンは邸の門を目指して走っていた。それはもはや瀕死の重傷者の走りではなく、力がみなぎる少年のように軽やかに走るのであった。しかし後ろからピストルが発射され、2発が背中に命中する。雪の上に倒れたラスプーチンの顔を、ユスーポフ公はこん棒でめった打ちにし、見分けがつかなくなるほど無残に壊してしまった。

再び動かなくなった体は毛布にくるまれ、ほどけないようロープでしっかり縛られ、ネヴァ川の分厚い氷の下に流された。しかし後日発見された時、死体の一方の手はロープをはずれて救いを求めるかのように前に突き出されていた。検死の結果、肺に水が入っていたことから死因は溺死とされた。つまり川に流された時はまだ生きていたということになる。

なんという生命力。致死量の百倍以上の青酸カリを飲み、心臓を打ち抜かれても、背中を撃たれても、顔をめちゃめちゃに崩されてもまだ生きていたとは。

ラスプーチンの死因については諸説あり、頭部の傷によるもので肺に水はなかったという説もある。つまり川に捨てられた時点ですでに死んでいたというのだが、遺体の写真を見るかぎり、前に突き出された手はやはり川の中でロープを解こうとしていたと推察する方が自然な気がする。

この夜の一部始終はユスーポフ公をはじめとする暗殺者たちの証言にのみ基づくものであって、今のように録画が残されているわけではないので何が真実かはわからない。しかしこれほど現実離れした出来事の全てが、迷信だらけの中世ならいざ知らず、20世紀初頭の高い教育を受けた貴族が作り上げた創作だと考えるのも少し奇妙に思える。検死報告書も残されていないので真相は不明だが、ラスプーチンが通常の人間とは異なる、特別な能力を持った人間だったことは間違いない。

彼の神秘な力により病を癒されたのは皇太子だけではなかった。彼は故郷の村でも首都ペテルブルクでも多くの人を癒している。だからこそ、その名が皇族にまで知れ渡り、皇帝夫妻に呼ばれることになるのだ。この手の話を信じようとしない人は「ラスプーチンが皇太子の痛みを治したのはアスピリンを使ったため」と推測しているが、一介の僧侶にすぎないラスプーチンが入手できた薬をなぜ宮廷付きの、つまりロシアで最も優秀とされていた医師たちが持っていなかったのかという疑問が生じる。彼らがなすすべもなく何日もただ手をこまねいて見ているしかできなかった皇太子の激痛が、ラスプーチンが優しく語り掛け、体を擦るとたちまち治ったことは事実なのである。

ただ残念なことに、ラスプーチンはキリストのような清廉な人物ではなく、大変な女好きで肉の快楽は神に近づく最も有効な手段であると唱えるハレンチな僧侶であった。理解しがたいことだが、このようないかがわしい教えを真に受けて彼に心酔して身も心も捧げる女性信者は多く、農婦から尼僧、貴族の女性に至るまで、幅広い層の女たちが彼の虜となっていた。皇后や皇女までもが彼といかがわしい関係にあるという噂もあり、そのため彼を嫌う者も多かった。

女性信徒に囲まれるラスプーチン

この淫らな行いとアクの強い容貌のせいでラスプーチンは悪者と思われがちだが、彼は平和主義者で戦争を憎み、ユダヤ人やポーランド人への迫害をなくすべきだと主張し、金銭に執着がなく、差し出されたものは受けとるが貧しい人がいればもらったお金を全額あげてしまうという、奇特な人だった。

1914年6月28日、オーストリアの皇太子夫妻がセルビア人に暗殺されたこと(サラエヴォ事件)がきっかけとなり第一次世界大戦が勃発する。ニコライ2世はオーストリアがセルビアに宣戦布告すると直ちにセルビアの肩を持ち、兵力動員の命令を出す。この時もしラスプーチンが首都にいれば、ロシアは戦争に突入しなかったかもしれない。ラスプーチンは常々「戦争は百姓のためにならない。戦争が役に立つのは、それで一儲けしようと思っている連中のためだけだ。民衆の血から生み出される金は呪われてよい」と皇帝夫妻に語っていた。実際彼は1912年の第一次バルカン戦争に介入することを皇帝に思いとどまらせている。周りの皇族や重臣たちが必死に参戦を主張していたにもかかわらずだ。ラスプーチンが皇帝に与える影響がどれほど強いものだったのかが伺える。

この重大な時期になぜラスプーチンは皇帝の傍にいなかったのか。それはオーストリア皇太子夫妻が暗殺された翌日の6月29日、故郷の村に帰っていた彼も一人の女性によって暗殺されかけたからだ。犯人はかつてのラスプーチンの熱心な信者で、彼を逆恨みする女性だった。精神に異常をきたしていたらしい。腹部を刺されて重傷になったラスプーチンはしばらく入院していなければならなかった。病床で戦争のニュースを聞いた彼は、戦争をすればロシアは破滅の道を辿ると再三にわたり皇帝に電報を送ったが、電報では熱烈な戦争支持者たちの生の説得には勝つことができず、彼が首都に戻ってきた時は国中が戦争熱に浮かされて引き返すことができない状況になっていたのだ。

誰もがこの戦争はすぐに終わると考えていた。だが予想に反して4年にもわたる長期戦となり、戦争が長引くにつれロシアも経済的に窮乏し、国民の不満はピークに達した。1917年3月、遂に革命が勃発して皇帝は退位し300年続いたロマノフ王朝はここに終焉を迎える。この数ヶ月前にラスプーチンは暗殺されているのだが、彼は自分の死を予期していたようで、死の間近皇帝夫妻に宛てた手紙には「自分は正月までに死んでいると感じる」(ラスプーチンが暗殺されたのは1916年12月17日)、「自分を殺すのがただの人殺しか百姓であるなら皇帝の地位は安泰だが、もし自分が貴族に殺されるならロシアには貴族も皇帝もいなくなる。自分の死後1年以内に(2年という説もある)皇帝も皇后も皇子も民衆によってみな殺される」と書かれている。

ラスプーチンを暗殺した主犯格は皇帝の姪を妻に持つ名門貴族ユスーポフ公、仲間に加わったのは皇族のドミートリイ大公、将校、代議士などだった。農民はいない。そしてラスプーチンの予言通り1918年7月、皇帝一家はエカテリンブルグで全員射殺される。

ロシア最後の皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラ、皇太子アレクセイ、4人の皇女たち

第一次世界大戦末期、ロシアに続いてオーストリアもドイツも帝制が崩壊し共和制となった。数百年続いた王朝だけでなく、はるか昔から延々と続いてきた王や皇帝が国を統治するという制度そのものがなくなってしまったのだ。サラエヴォでの1発の銃声が世界を変えたと言われるが、私はサラエヴォの翌日に起きた暗殺未遂事件とセットになることで歴史に大きく影響したのではないかと思っている。もしラスプーチンが刺されなければ皇帝を説得して開戦を思いとどまらせることができただろう。ロシアが介入しなければ、単にセルビアとオーストリアとの間の戦争で終わっていたかもしれない。ロシアという大国が関与しなければドイツがしゃしゃり出てくることはなかったのではないか。ドイツが侵攻してこなければフランスは静観していたかもしれない。イギリスが巻き込まれることもなかっただろう。

自分の死後に起こることを正確に予言したラスプーチンという人物はいったい何者だったのだろう。大勢の女性たちと性的な関係を持ったことが原因だと思うが著しく評価が低く、詐欺師ともロシアを破滅に導いた怪僧とも言われるが、私は極度に淫乱だった以外は人格者だったように思う。彼をもっと早く殺していればロシア革命は起こらなかったと言う人もいるが、はたしてそうだろうか。ラスプーチンが戦後の復興に向けて考えていた改革を見てみると、農民には農地を、労働者には給料のほかに利益の配当を与える、税金は能力に応じて払われるべきで教会も例外ではない、ユダヤ人を解放するなど、人道的で富が一部の特権階級に偏るのを緩和するように考えられている。これらが実行されれば革命の原動力は間違いなく失われただろう。レーニンの出番はない。ニコライ2世は優柔不断で周りの人間が強く主張することを素直に受け入れるタイプだったし、すぐに首を縦に振らなかったとしてもラスプーチンを神の使いと信じて疑わないアレクサンドラ皇后が彼の政策を擁護すれば皇帝を説得するのは容易だったはずだ。ロシア革命は起こらず、今でもロマノフ王朝は存続していたのかもしれない。

しかし残念なことに彼は道半ばで殺された。自分たちの特権が少しだけ奪われるのを恐れた貴族によって。彼らが殺したのは、実は自分たちの地位や命を守ってくれる守護者だったのではないだろうか。ラスプーチンは熱心な帝政擁護者で、したがって貴族の存在を否定していたわけではない。ただ貴族が所有する多すぎるものを貧しい民にも分け与えるべきだと考えていたのだ。革命後外国に亡命した皇族や貴族の多くは困窮のうちに寂しく死んでいった。なぜそうなったのか、彼らは考えてみたことがあるだろうか。後世の人間の視点から見ると、運命の分岐点はやはり第一次世界大戦だったように思う。戦争による窮乏とそれに対する国民の不満が以前からあった不穏な動きを加速させ、一気に爆発させてしまったのだ。ラスプーチンがあれほど戦争に反対していたというのに…

ラスプーチンが残した別の予言に「バッテンベルクの家の者がイギリスの王になった時、イギリスの王制は終わる」というものがある。ドイツのヘッセン大公家の傍系であったバッテンベルク家の血筋は現在イギリス王室に流れている。今年4月に亡くなったエジンバラ公(現女王エリザベスの夫)の母がバッテンベルク家出身なのだ。つまり次期国王チャールズは「バッテンベルクの家の者」ということになる。この予言も果たして当たるのか、気になるところである。

参考文献:マッシモ・グリッランディ著『怪僧ラスプーチン

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