女だって洗い物はキライ

人間

私は三谷幸喜氏のファンである。といっても昔のドラマは見ていないものもあるのだが、最近のドラマと映画はほとんど見ている。三谷さんの作品は登場人物全員がとても魅力的で、細かいところも手を抜かないので最初から最後までずっと楽しめる。爆笑した場面は数えきれないが、『ザ・マジックアワー』という映画のワンシーンが妙に印象に残っている。

ホテルのマダム役の戸田恵子さんがコーヒーを飲み終わって席を立つお客(浅野和之さん)に向かって「先生、自分で流しに下げといて」と命令口調で言う場面だ。浅野さんは隣の席の客(妻夫木聡さん)に「人使いの荒いホテルだ」と小声でささやくもののマダムに文句を言う事はせず、言われるままにカップを持って流しに向かう。あれを見た時、きっと三谷さんも奥さんからさんざん言われていたのだろうと思えてとてもおかしかった。

食べ終わった食器を流しに持っていくよう妻から言われているご主人は相当いるはずだ。私のまわりでもそういう家庭が何軒かあるし、私が9年間在籍した会社の専務もおそらくそうだ。

専務は若い頃一度結婚したがすぐに離婚したので一人暮らしが長いのだが、洗い物などは家でもほとんどやらないらしく、食事はたいていコンビニ弁当、飲み物はペットボトル飲料なので食べ終わっても容器を捨てるだけで一切洗い物はしない生活をしている。しかし会社では事務員に洗わせればいいと思っているのか、時々出前をとって食べている。

私が勤め始めて間もない頃、休み明けの月曜日に出社すると事務所の流しに専務が前日食べたカレーの皿が汚れた状態で置かれていた。狭量な私はこれを見て頭にカーっと血が上った。男子たるもの、洗い物などしてはいけないとでも母親に教わったのだろうか。自分の食べた食器を翌日まで放置しておくことに何の羞恥心もないのだろうか。これが都会にオフィスを構える大会社の専務なら理解できなくもないが、こんな田舎のちっぽけな会社では専務とは名ばかりで、普段は従業員と同じジャンバーを着て、従業員と同じように集金に行ったり配達もしたりするのである。決断力がなくて仕事が遅い専務にいちいちお伺いを立てていては何もできないので、みんな専務に頼ることなくそれぞれ自分の判断で仕事をこなしている。もったいぶって洗い物などできないと言えるようなお偉い専務様でないことは誰もが承知している。

しかし私は職場での洗い物すべてを理不尽と思っているわけではない。専務が個人でとった出前の食器を洗うことに抵抗はあるものの、社長や副社長、お客様が来た時に使ったコップや湯呑などを洗うのは当然事務員の仕事だと認識しているので別に不平もなくやっていた。これらの食器はたいてい専務が応接間の隅にある流しまで運んでいたが、テーブルの上にそのままおかれていることも時々あった。時間がなくてすぐに出かけなければならないこともあるので、これは致し方ないことだし、洗うことに比べれば流しまで運ぶことなど造作もないことなのだが、なぜか専務はこれをひどく気にして、後で必ず「すいませんでした」と詫びるのだ。ある時などお客様を駅まで送ってきたあと階段をバタバタと駆け上がり、ゼーゼー肩で息をしながら「片付けてなくてすいません」とあわててテーブルのコップを流しに運び、それだけやるとすぐに部屋を出て階段を下りて行った。私は昼休憩中で応接間でテレビを見ながら弁当を食べていたのだが、せっかくそこまでやったのだから洗っていけばいいのにと思わずにいられなかった。

どうやら専務は人に洗い物をさせることは当然と考えているが、食器を流しまで運ぶことだけは絶対に守らなければならない義務と考えているようだ。専務のお母さんは専務が高校生になっても魚の骨を取ってあげていたほど過保護だし、専務の異常なほどの怠惰な傾向は相当甘やかされて育った結果であるように思えたので、「流しに持っていく」ことを叩き込んだのは恐らく別れた奥さんだったと推測できる。

それにしても理解できないのは、「流しに持っていく」ことまではやっても「洗う」ことは決してしないことだ。奥さんの本音は「たまには洗うところまでやってほしい」だったと思う。しかしそこまでは言葉にして要求できないので、必要最低限の「流しに持っていく」ことだけはやるように言ったのではないだろうか。だが夫は妻の気持ちを慮ってその次の行動に出ることはしない。どんなことがあっても決して一線を越えないのだ。

多くの男性が洗い物をしないのは、単純にやりたくないからだろう。それはとても理解できる。女だってやりたくないからだ。私は台所の片付けが終わっていないと落ち着いてテレビを見ることができないので食後すぐにやるようにしているが、これは別に好きでやっているわけではない。汚れたものを流しに放置することが精神衛生上好ましくないからやっているだけだ。私は若い頃から手指に湿疹が出るのでゴム手袋をはめて洗い物をしていた。しかし暑い時期になると手袋が汗で張り付いて非常に気持ち悪い。脱ぐ時もなかなか脱げなくて時間がかかるし汗で濡れた手袋を裏返して洗わなければならない。夏の洗い物は最悪なのだ。しかし食べたからには洗わなければならない。「いやだな~」という気持ちを押し殺し、自分を鞭打って流しに向かう。

最近は録画した番組がCMに入った時に洗うようにしている。CMの間に洗ってしまおうと思うと手の動きが非常に早くなり、無駄な動作を極力排して短時間で終わらせることができるからだ。無論洗うものが多い時はCM中に終わらないので一時停止ボタンを押さなければならないが、それでも普段に比べると圧倒的に早く終わる。家事の中で一番嫌いな洗い物が終わった時の、あの何とも言えない安堵感と爽快感… 

世の男性方は女も洗い物が嫌いだということをご存知だろうか。中には「別に嫌いじゃない」という人もいるかもしれないが、数的にたぶん少数だと思う。多くの女性は嫌いだけど仕方がないからやっているのだ。だから私などは自分が食べたものではない食器が流しに放置されているのを見ると頭に血が上ってしまう。それは「お前が洗え」という無言の命令だからだ。口に出して言うことはできないが、心の中でつい(自分が食ったものぐらい自分で洗えよ!)(甘ったれんなよ!)(なめてんじゃねーぞ、こらぁ!)などと毒づいてしまう。

もし奥様から「流しに運んでくれればそれでいいから」と言われていたとしても、たまには洗って拭くまでやっておくと家庭の円満に寄与するかもしれない。ただし後で奥様が洗い直さなくてすむように、きちんと汚れは落とさなければならない。当たり前のことなのに、これができていないご主人は多いらしい。そして「せっかく洗ってやったのに後でやり直すんだから、もう俺はやらない」と言うのだ。甘ったれもいいところだ。もし会社で自分のミスを誰かがフォローしてくれたのが気に入らず「それじゃあ俺はもうやらない」とふてくされたら、一体どうなるだろう。外の世界では決して許されない非常識な言動が家庭では通用すると思っているのだろうか。洗った食器に汚れが残っていれば、それは明らかに「ミス」である。洗う目的が汚れを落とすことという認識があれば簡単に防げるミスだ。形ばかりのパフォーマンスであればそれも難しいかもしれないが。

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