M荘にいた時、福千代は社交的だった。様々な猫に近づいて遊びに誘い、気の合う友人もできた。ところがどういうわけか、この後引っ越した場所ではほかの猫の存在を一切許さず、ひたすら喧嘩に励むようになってしまった。
猫の姿を見ると必ず唸り声をあげ、近所迷惑な大声で威嚇する。福千代は体格が良かったので大抵の猫は危険を回避しようと、後ずさりして争うのを止めようとする。しかし福千代はしつこかった。相手が逃げると、よせばいいのに追いかけて行って反撃をくらい、怪我をして帰ってくることが時々あった。
ある日、喧嘩の声が聞こえたかと思うと、福千代が後ろ足の内側から血を流して帰ってきた。いつもは怪我をすれば傷口を自分で舐めて治そうとするのだが、この時はよほど痛かったのか、傷口を避けて、その周りの血で汚れた部分だけを舐めていた。しかし血が止まらないようで、いくら舐めても後ろ足には血がべったりついていた。
急いで動物病院に連れて行くと、動脈に穴が開いているとのことだった。薬で止血できるかどうか様子を見ていたが、出血は止まらなかったので全身麻酔をして血管を縛る手術をした。
1週間後に抜糸をし、順調に回復していたはずなのに、福千代はせっかく治りかけていた傷口をしきりに舐めるので、その部分の毛が抜けて皮膚はただれ、血がにじんだ状態になってしまった。
再び動物病院に連れて行くと、手術後の犬や猫に時々見られる何とかという病気だと言われた。犬の場合は舌がなめらかなのであまり問題はないが、猫は舌がザラザラしているので皮膚を傷つけてしまうらしい。
「治りますか?」と尋ねると「治りません」という無情な答えが返ってきた。何しろ先生が飼っているハナちゃんという猫も同じ症状だというのだ。確かに待合室で接客するハナちゃんの尾の付け根は、毛がなくていつも血がにじんで痛そうだった。
しかし私は諦めたくなかった。舐め続ける理由が分かれば止めさせることができるはずだ。
「どうして治った所を舐め続けるんですか?」と尋ねると「気になるからです」という答えが返ってきた。「どうして気になるんですか?」と尋ねると「暇だからです」という答えが返ってきた。他の猫を飼うなどして関心を他に向けると舐める頻度が少しは減るというのだ。
しかし根本的な解決にはならない。よく効くという皮膚病の塗り薬を勧められたがお断りして家路についた。
ただれて血がにじんだ皮膚を舐め続ける福千代の姿を見るのはつらかった。これがずっと続くなど、とても耐えられない。獣医師が治らないと断言した病気。しかし何としても治さねばならなかった。なぜ舐め続けるのか、その原因さえ分かればいいのだ。
福千代が怪我をして病院で治療を受けたのはこれが初めてではない。その時は異常な行動は見られなかった。その時と今回と、どこが違っていたのだろう?
まず病院に行く前、前回は傷口を自分で一生懸命舐めていた。今回は痛みが強すぎたためか、全く舐めなかった。次に病院での処置から抜糸までの約1週間、前回はエリザベスカラーを付けていたにもかかわらず、傷口を舐め、さらには抜糸まで自分でやっていた。病院に行った時、「もうほとんど自分で抜糸しちゃってますよ」と言われた。今回の傷はエリザベスカラーがあると舌が届かない場所だったために、舐めることも抜糸することもできなかった。
動物は怪我をすると舐めて自分で治そうとするものだ。たとえ人間に飼われていて、具合が悪くなれば病院に連れて行ってもらえるとしても、それは変わらない。それなのに今回は全て人間が処置をし、自分では一切何もやらなかったのだ。そのため福千代の脳は「まだ怪我は治っていない」と判断し、誤作動を起こしてしまったのではないだろうか。もしそうなら治療をやり直し、抜糸に代わることを福千代にやらせなければならないと思った。
まずエリザベスカラーをもう一度つけて傷口を舐めさせないようにした。しかしずっとつけっぱなしではストレスが溜まるので、日に何度か外して体の他の部分を舐めさせた。傷口を舐めようとしたが、皮膚がただれている間は私の手で覆って舐めさせないようにした。ただれが治って毛が生えてくると、少しの時間舐めることを許した。必要以上に舐めれば手で覆って止めさせ、皮膚の回復に伴って舐める時間を徐々に延ばしていった。
程なくして毛もびっしり生えそろい、皮膚は完治した。私はエリザベスカラーを外す前日、ばんそうこうを10枚ぐらい、傷のあった場所にベタベタ貼った。少しかわいそうだが、福千代には異物が体に貼りついている不快感を丸一日味わってもらわねばならなかった。それを自分で取り除いた時に達成感をより強く感じてもらうために。
翌日エリザベスカラーを外した。予想通り福千代は真っ先にばんそうこうをはがそうとした。しかし想定外だったのは、一瞬で全てのばんそうこうがはがれてしまったことだった。私は福千代が自分で怪我を治したと認識するために、一枚一枚手間をかけてはがすのを期待していたのだが、ばんそうこうは固まりではがれてしまった。福千代はばんそうこうが貼ってあった所をペロペロ舐めている。
(失敗だったか?)と不安になったが、必要以上に舐めることはなかった。2週間ぐらいたっても、脱毛も皮膚のただれも見られなかったので、ようやく安心できた。
たとえ飼い猫でも、やはり動物は動物だ。動物の本能を無視すれば何らかの歪みが出るのかもしれない。動物が本能でやることを人間があまり制限するのは良くないのではないかと反省した。
このあとすぐ、私は金魚を飼い始めた。獣医さんの「他に猫を飼って舐めることから関心をほかに向ける」という言葉が頭に残っていた。福千代の異常な行動は治まったものの、念には念を入れて再発防止をしなければならない。猫をもう1匹飼うのは難しいが、金魚なら可能だ。
水槽セットと小さい和金を5匹購入して下駄箱の上に置いた。福千代は水槽の中を元気に泳ぐ金魚をジーッと見ながら、時々前足でバシッと水槽を叩いた。金魚に関心を持ってくれたのはよかったが、金魚にとってはさぞかし迷惑なことだったろうと申し訳なく思った。