猫に見えるもの

猫は人間には見えないものが見えるという。福千代がどうやらそういうものを見ているなと思うことが3回あった。

福千代にとって2度目の引越の日のことである。引越屋さんが帰り、私が荷物を片付けていると、福千代は新居を隅々まで匂いを嗅いで探検していた。開け放してあったドアから浴室に入ったようだが、突然「フギャー‼」という、けたたましい叫びをあげ始めた。猫同士の喧嘩でよく聞くあの声だ。福千代はよく喧嘩をしたが、あのような声が福千代の口から出たのは初めてだったと思う。

福千代は体が大きく、喧嘩をする時はたいがい優勢で、唸り声は大きいが低めの声だった。相手の猫は耳が後ろ向きになり、体を低くしながら頻りにまばたきなどして、甲高い声で叫ぶ。必死な分、こちらの声のほうが圧倒的にうるさい。

新居で福千代が発したのは、明らかに劣勢の甲高い叫びだった。声だけでなく、取っ組み合いをしているようなバタバタという音まで聞こえてきたので慌てて浴室に行ってみると、福千代がすごい勢いで飛び出してきた。猛ダッシュで出窓に飛び乗り、興奮を冷ますためだったのだろう、せっせと毛繕いを始めた。

私は浴室の中を覗いたが、何もいなかった。しかし福千代の様子を見る限り、何もいなかったはずはない。間違いなく何かいたのだ。私にそれが見えないだけで……

9ヶ月後の正月、隣で寝ていた福千代が突然ガバっと起き上がり、「ウゥゥ……」と唸り声をあげた。緊張した面持ちで、何者かの動きを追うように頭を少しずつ右に向けていった。そして急に左を向き、ベッドを下りて吹き抜けのリビングに面している窓に寄った。

福千代はずっと窓から下を見続けて微動だにしない。私は福千代の視線の先を追ったが、私の目には見慣れたリビングの風景しか映らなかった。いつもならごはんの催促でうるさいのに、福千代は一言も声を発しない。(これはまた何かが来ているな)と思ったが、私には見えないのでいつも通り階段を下りてリビングに行った。

その頃福千代には面白い習慣があり、私が階段を下りる時、後ろからドドドドっと追いかけてきて途中で私を追い越すのを日課としていた。最初はほぼ同時に降り始めていたが、そのうち私が遅くて競走にならないのでハンデを設けてくれたらしく、私が階段の真ん中まで行ったら下り始めるようになった。私は競走するつもりはなく、マイペースで降りていたので、いつも福千代が先にゴールした。

しかしその日は競走なんかやってる場合じゃないという感じで、寝室の窓からじっとリビングを見下ろしていた。私が「福ちゃん、どうしたの? ごはんにするよ」と声を掛けると、目を真ん丸に見開いて「ママにはあれが見えないの?」とでも言っているように私の顔を凝視した。

それでも食欲には逆らえず、しばらくして階段を下りてきたが、異常に静かだった。キッチンでごはんを食べている間、いつもは一心不乱に食べてよそ見などしないのだが、その日は何度も何度もリビングの一角を振り返っていた。

最後はそれから10年以上後のことである。

母が肝臓がんを患い入院していたが、休日の午前中お見舞いに行くと、意識が朦朧として容態はかなり悪化していた。一週間前に行った時はいつも通り結構長い時間おしゃべりをしていたのだが、その日はしゃべることもできず、ただ手を握って一方的に話しかけることしかできなかった。

その夜ソファでテレビを見ていると、福千代が目を見開いて私の左をじっと見つめていた。何もないはずの所を驚いたように…

「福ちゃん、何か見えるの?」と私は聞いたが、(もしかしたら…)という思いは強かった。

数分後父から電話があった。母の容態が急変したとのことだった。急いで病院に駆け付けたが、間に合わなかった。母は既に息を引き取っていた。亡くなった時間を聞くと、福千代が何かを見ていた時間より20分ぐらい後だった。

母は亡くなる直前、私に会いに来てくれたのだ。姿を見ることはできなかったが、来てくれたということははっきり知ることができた。それを教えてくれた福千代には心から感謝している。

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