猫は人間の言葉がわかる

猫はどの程度人間の言葉を理解しているのだろう? 

まず自分の名前は完全に理解している。私が「福ちゃん」と呼べば必ず返事をする。眠っている福千代の耳元で、聞こえるか聞こえないか分からないぐらいの小さい声で「福ちゃん」とささやくと、すぐに反応しないのだが、5秒ぐらいするとハッと目を覚まし、私をじっと見て「何?」という顔をする。もっと大きい音を立てても起きないが、自分が呼ばれていると分かるので目を覚ますのだ。

ちなみに近所の人が出窓にいる福千代に向かって「福ちゃん」と呼びかけると、「ニャッ」と返事をするらしい。窓が閉まっているので声は聞こえないが、口の動きで短く「ニャッ」と鳴いたのが分かるそうだ。

福千代は私に対しては「ニャー」と普通にのばして鳴く。短く「ニャッ」と鳴いたことはない。推測だが、福千代は私以外の人に呼ばれると、返事をしていいものかどうか少し悩むのではないだろうか。飼い主以外の人間に愛想をよくするのは少々後ろめたく、かといって名前を呼ばれて無視するわけにもいかず、中途半端に「ニャッ」と短く鳴いたのではないかと考えている。

それから自分が“猫”という種に属していることも知っている。家に来たお客さんに「うちの猫は…」と話していると、すぐさまやって来てテーブルの上にひょいと飛び乗り、私とお客さんの間に立ちはだかる。その人が来た時はいつも少し離れたソファで寝ているので、お客さんも「こんなことは初めてですよね」と驚く。福千代は自分が話題になっていることがちゃんと分かるのだ。

食べ物の名前などはかなり知っているようだ。「今日はお刺身買ってきたよ」と言って缶詰を出すと、福千代は納得できないようでいつもは喜んで食べる缶詰に食いつかず、何か違うものを要求する。私が「お刺身は缶詰の後だよ」と言っても聞き入れない。

私は子供の頃から貧乏性で、おいしいものは最後に取っておく習慣があった。お寿司を食べる時は、最初に卵を片付ける。卵焼きが嫌いなわけではないが、海の物の中に山の物(陸の物?)があるということに納得がいかないのと、甘いお菓子は大好きだが食事が甘いのはあまり好きではないため、早々に消してしまいたいのだ。あれば次はかっぱ巻き。甘くないので卵ほど興ざめではないが、やはり山の物なので片付ける。それからタコ、イカと進み、最後にトロやウニ、イクラが残る。この3つの順番はその時々で違うのだが、とにかく最後に美味しい物を食べると、それだけをお腹いっぱいに食べたような気になる。

この貧乏くさい食べ方を福千代に求めたのだが、福千代は激しく抵抗した。仕方がないのでお刺身を細かく切ってあげると、猛スピードで平らげ、おかわりを要求した。生の魚は猫にはあまり良くないので「ちょっとだけだよ」と少しだけ追加した。これも一瞬で平らげるが、もうもらえないと分かるとやっと缶詰に口をつけた。

おいしいものを最初に食べるとは贅沢なやつだと思ったが、そもそも私が「お刺身買ってきた」などと言わなければ、いつも通り缶詰を最初に食べたはずだ。福千代は「お刺身」が分かるのだ。

福千代は朝食後に外へ出たがった。猫ドアがない借家に住んでいた時は、私が家を出る前に戻ってこないと夜まで外にいることになるので、時間に余裕のある時だけ「30分で帰ってきてね」と言って外に出してあげた。福千代は私の言葉どおり、大抵30分以内で帰ってきた。たまに遅く出社することがあり、その時は「今日は1時間で帰ってきてね」と言った。すると不思議と45~55分ぐらいの間に帰ってくるのだ。もしこれが偶然ではなく、本当に私の言葉を理解してのことだとしたら、すごいことだ。福千代は30分とか1時間がどれぐらいの長さなのか知っているということになる。

しかしたまに時間通りに帰ってこないこともあった。私はヤキモキしながらぎりぎりまで待ったが、仕事を休むわけにもいかず、一階の窓を開けっぱなしで家を出るわけにもいかず、戸締りして仕事に行かなければならなかった。寒い時期だと夜まで外にいさせるのは可哀そうなので、昼休みに自転車をとばして家に帰ることもあった。福千代は大抵縁側で待っていた。仕事中も気になって仕方がなかったので、福千代の顔を見るとほっとしたものだ。

このような事もあったので、福千代が「30分で帰ってきてね」という言葉を理解していたと断言することはできない。しかし私の出勤前に帰ってこなかったのは数か月に1度ぐらいだったので、確率からいうと8割は私の言いつけを守ったことになる。

また先代猫の千歳も人間の言葉をかなり理解していた。千歳は誰もが認める美猫で、「美女猫」「近寄りがたい気品を感じる」などと評されていた。一般的な日本猫より毛が長く、アイラインをひいたような目はきりりとして高貴な感じがした。自分の美しさを認識していたのか、身だしなみは念入りで、毛はシャンプーしなくてもいつもきれいでフワフワだった。

ところがある時、ベッドで昼寝をしている千歳を見ると、前足が珍しく汚れていた。

「千歳、お手々汚れてるよ」と私が言うと、がばっと起き上がり、前足の毛をべろべろ舐め始めたのだ。私は驚いて千歳を見た。言葉がわかったのか? それとも偶然か?

千歳は汚れた前足だけを舐め終えると、また横になって昼寝を続けた。やはり「お手々」が「前足」であることや「汚れている」がどういう状態なのかを理解しているとしか思えなかった。

千歳は息を引き取る直前に茶色の液体を吐き、胸の毛を汚した。私はすぐにティッシュで拭き取ったが、茶色いしみが白い毛に大きく残っていた。それでお湯で薄めたシャンプーを汚れた部分につけて泡立て、タオルで拭き取ることを何度か繰り返し、最後にドライヤーで乾かした。

ここまでやって初めて、私は千歳の目が開いたままであることに気づいた。瞼を閉じようとしたが、すぐに開いてしまった。息を引き取ってそれほど長い時間が経ったとは思われなかったが、死後硬直が始まっていたようで、もう一度閉じようとしてもやはり開いてしまった。3度目に「千歳、お目々開いたままだと変だよ。閉じてた方が可愛いよ」と言って瞼をおろすと、不思議ともう開くことはなかった。

千歳の霊は私の言葉を理解した。そして脱ぎ捨てたばかりの体に働きかけて私の言う事に従ったとしか考えられなかった。

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