強くて弱い

人間

 安部さんは辞めるということを私以外にも数人の男性従業員に話したらしく、そちらの経路から武田さんにも情報が伝わっていた。武田さんいわく、「辞める、辞めるって周りの人間に言いふらして同情を引きたいだけでしょ。どうせ辞めやしないわよ。ここの経営者が変わった時も『離婚して家を出るかもしれないから給料は下げないでほしい』って久木田さんに泣きついていたけど、結局離婚なんてしてないし」と冷たい反応だ。確かに仕事中フラフラ出歩いて好きな事をし、それでいて仕事量に全く見合わない高給がもらえる職場などほかにないだろう。お金に対する執着心が人一倍強い安倍さんがこんなおいしい仕事を手放して、もっときつくて給料が半分以下の仕事に就くとは考えづらい。しかし武田さんの冷淡な態度が辛いのも確かだ。私は「でも武田さんにあれだけ冷たくされれば、やっぱり居づらいんじゃないかな」と言ってみた。

 これに対する武田さんの反応は意外なものだった。「冷たい? 私が? いつ私が安部さんに冷たくした?」私はあっけにとられた。傍で見ている私にもはっきりわかるほど、安部さんに対する武田さんの態度は変わったというのに、今さら否定することに何の意味があるのだろう。質問されれば答えなければならないので、武田さんが安部さんとの会話を拒否するようになったことを伝えた。武田さんは険しい顔で「例えば?」と聞いてくるので私はいくつか事例を挙げた。すると武田さんは「あの時はすごく忙しかったから、一々答えていられなかったのよ。別に私は安部さんのことを嫌ってるわけじゃないよ。ものすごく忙しかったんだから!」とむきになって言った。武田さんは安部さんと仲が良かった時の方がずっと忙しかったはずだが、どんなに忙しくても根がおしゃべりなので安部さんとはいつも長い会話をしていた。安部さんを嫌っていないと言うが、嫌っていない人間の悪口を常習的に言うものだろうか。かなり苦しい言い訳だ。

 この会話以降、武田さんの安部さんに対する態度が少し和らいだ。以前ほどではないが安部さんと話すようになり、少し笑顔も見せるようになった。この変化のためかどうかはわからないが、安部さんは会社を辞めることはなく準社員として継続することになった。武田さんは何年か経ったあとも時々このことに触れ、「私が冷たいから辞めるってどういうことよ? あの頃はすっごく忙しくて安部さんに構ってられなかっただけなのに!」と何度も何度も、私に対してというより自分に言い聞かせているようだった。

 武田さんに冷たくされて安部さんが会社を辞めようとしたのは事実だが、武田さんがやったことは昨今学校や職場で問題になっているいじめほど陰湿なものではない。安部さんのいい加減な仕事ぶりを見れば、きっと大半の人が同じような反応をしただろう。安部さんという人は本当に仕事がきらいで、事務所に私か武田さんのどちらか一人しかいない時は専務に言われて渋々事務所に入るのだが、集金パートの人が入金に来たりして忙しくなると必ず逃げ出した。昼休憩の時は安部さんが事務所で留守番をすることになっているのだが、それがいやな安部さんは忙しくて事務所に入れないというふうを装って、12時頃になるとあたふたと荷物の点検をしてみたり、トイレ掃除などを始めたりするのだった。しかし専務や店長が外から帰ってきて事務所に入ると、大抵その後に続いて安部さんも入ってきた。事務所に一人きりでいるなら電話に出たりお客様の応対をしなければならないが、専務や店長がいるなら彼らがやってくれるので安心して事務所に入れるのだ。

 こんなズルいことばかりやっている安部さんに武田さんが冷たくしたとしても、何ら責められることはないだろう。それで安部さんが辛くなって仕事を辞めたいと思うなら自業自得だ。ところが武田さんは自分が安部さんを追い詰めたと知ると、急に怖くなってしまう。かわいそうなことをしてしまったと反省するならまだわかるのだが、彼女は決して反省はしない。自分は冷たくなどしていない、誤解だ、ただ忙しかっただけだと必死で自分に言い聞かせる。私はこの奇妙な反応を見た時、武田さんが精神的に非常に脆いということを知った。あれだけ言いたいことを言い、気に入らないことがあればヒステリーを起こして誰にも文句を言わせない人が、自分の言動の結果の重さには耐えられないのだ。確かに20年以上務めた会社を辞めるというのは大きいことだ。収入は激減し、その後の人生を大きく変えるかもしれない。しかしそうなったのは武田さんのせいというより安部さん本人の責任だ。あんないい加減な働き方でクビにならない方がどうかしている。だが武田さんは安部さんの退職に自分が関わっているとは思いたくない。自分が人の人生を変えてしまったと認めることなど、怖くて到底できないのだ。

 武田さんが仕事上のミスを認めようとしないのも、自己嫌悪に陥るのが怖いからなのかもしれない。誰もが武田さんの機嫌を損ねるのを恐れて、どうしても本人に言わなければならない時だけ覚悟を決めて、心臓をバクバクさせながら控え目に言うのだが、それでも武田さんはキレて大声で自分の正当性を主張する。自分の非を認めることが辛くてできないからヒステリーを起こして自分も他の誰も問題の核心に触れないようにするのだ。ヒステリーは弱い人間が自分を守るために必死で振り回す武器なのかもしれない。武田さんは私がこれまで出会った中で群を抜いて気が強い人だったが、同時に驚くほど精神面が弱い人だった。

タイトルとURLをコピーしました