女王様のお怒りは凄まじくて

身代わり地蔵 人間

 武田さんはよくしゃべる。特に人の悪口になると弾丸のようにしゃべるのだが、仕事上きちんと伝えなければいけないことは伝えない。武田さんが他の人としゃべっていることを、聞き耳を立てて聞いているべきだと考えているらしい。しかし最初の数年間、武田さんは電話をほとんど取らず、私はひっきりなしに鳴る電話を取るのに忙しくて、周りの話に耳を傾けていられないことが多かった。そのため重要な話がされても知らないことがあり、「聞いてないんですけど…」と言うと「あの時いたよね!」とすごい形相で睨まれることが何度もあった。

 そんなある日、専務が取り決めたことを武田さんが「そんな話、聞いてないわよ」と言った。専務が「あれ?武田さん、あの時いたよね?」と言うと彼女は烈火のごとく怒り、「私だってお客さんが来れば対応しなきゃいけないし、クソ忙しいのに話なんか全部聞いてられないわよ‼ 私がどんだけ忙しいと思ってるの? 冗談じゃないわよ! ねえ、そう思わない⁈」と私に振ってくるのには困ってしまった。それだけ腹の立つことをあなたは私に何度も言ったんですけど… しかし、武田さんが重要事項をきちんと伝えるようになるまでには、あと数年を要した。「あの時いたよね」はしばらく続いた。 

 武田さんがほとんど電話を取らないので、当然お客様からのクレームの対応はもっぱら私がやらなければならなかった。中には武田さんの失敗でお客さまからひどく怒られることもある。どう考えてもこちらが悪いとしか考えられないトラブルだったので、お客様からののしられても詐欺師呼ばわりされても、私はひたすら謝るしかなく、やっとのことで電話を切った後は実にいやな気分だった。

 こういう場合、自分のせいで不快な思いをさせたことを謝るのが普通だと思うのだが、武田さんという人は自分のミスをそう簡単に認めるタイプではない。このクレームの電話は前日にもあり、その時は奥様からだったのだが、奥様から報告を受けて納得いかないご主人が翌日かけてきたのだ。だからクレームの内容は説明しなくても武田さんにはわかっていたようで、電話を切るなり武田さんの怒りが爆発した。自分は絶対に悪くない、自分がやったことは正当なことで怒る方が間違っているとかなりの興奮状態だ。根本的に常識からかけ離れた考え方をしている彼女に、私は穏やかにお客様の言い分が正しいことを説明しなければならなかった。以前家庭教師をやっていた時の感じで、相手が理解しずらいことを具体例をあげて納得してもらえるよう努めた。しかしこれは逆効果だった。後に本人から聞いた話だが、彼女はなだめるように優しく説明されることが一番腹が立つそうだ。しかしこの時それを知っていたとしても、ほかにどうすることもできなかった。武田さんと同じように喧嘩腰でどなればよかったのだろうか。いや、彼女はいつも喧嘩腰で話すが、人から同じように話されると手のつけようもなく怒るのだ。数年後私はこれを経験することになる。

 何度か意見をやり取りし、反論できなくなると彼女は無言で事務所のドアをバタン!と閉め、喫煙所に向かった。彼女は怒りがおさまらなくなるとタバコを吸いに行くのだった。武田さんのミスでお客様から怒られ、武田さんからも怒られる… なんで私がこんな目にあわねばならないのだろう。情けないかぎりだ。

 このように武田さんの怒りが一番激しくなるのは、自分がミスをし、それを指摘されたり咎められたりしたときだ。自分は少しも悪くない、間違っていないとわめきたてるパターンが多かったが、入力ミスなどの否定しようがない間違いについては、初めの頃はやはり反発が強く、些細なことを言い立てる相手の性格の悪さを強調するのだった。そのため武田さんがよくやるミスを、専務は私に注意した。穏やかな言い方なので嫌な気分にはならなかったが、(私そんなミスしたのかな?)と不思議に思っていた。あとで安部さんから聞いたのだが、それは専務が武田さんに面と向かって注意できないので、私に言って武田さんに聞かせていたのだそうだ。私は身代わり地蔵か。

 しかし一度だけ、100%私のミスなのに武田さんが激怒したことがある。
 初めの頃は前日の売上金を翌朝私が数えて武田さんが銀行に入金していたが、ある時私は10円間違って数えてしまったらしい。銀行から戻った武田さんは大声で私を罵った。取返しのつかないミスをしたかのように怒鳴りちらし、我が子を殺された母親が犯人を憎むようにありったけの憎しみを込めて罵倒した。不当ともいえる怒りだったが私がミスをしたことは間違いないので「申し訳ありませんでした」と謝罪すると、彼女は例によって事務所のドアをバタンと勢いよく閉めて喫煙所に行った。後に安部さんが教えてくれたが、武田さんはこの時煙草をふかしながら私のことを「いない方がマシ」とのたもうたそうだ。

 翌日から現金は武田さんが数えるようになった。私もその方がよかった。何せ私が現金を数えている最中でも武田さんは電話に出ないのだから。紙幣を数える機械は武田さんの机の上にあり、私は手で数えなければならなかったというのに、電話が鳴るたびに中断し、また数え直すのにうんざりしていた。集計が遅くなれば武田さんはイライラしているのを隠そうともしないし… 「あんたが電話に出てくれればもっと早く集計できるんだけど」とは、口が裂けても言えないし…

 そのうち武田さんが数えた現金を専務が銀行に持っていくようになった。銀行から戻った専務はよく「1,000円多かった」とか「16,000円足りなかった」とか言った。それに対して武田さんは「そう?」と軽く答えるだけだった。私にはよく分からないが、1,000円とか16,000円合わないのは大したことではないが、10円合わないのはきっと会社の存続が危ぶまれるほどの、決してあってはならない重大な過ちだったのだろう。

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