男の嫉妬

人間

 久木田専務があまりにも頼りないので私達事務員はイライラすることが多かったが、彼は基本的に優しく裏表のない性格だったので、嫌うところまではいかなかった。しかし表面的にはうまくやっているように見せかけながらも内心では専務に憎しみをたぎらせている人物がいた。田辺店長である。

 田辺店長は私がパートとして入社した半年後に横浜からやってきた。年は私より一つ上でスラリとした長身のイケメンである。昔ホストをしていただけあって会話が面白く、女性をおだてていい気分にさせるのが上手だった。結婚はしているが子供はいない。

 一方久木田専務はバツイチで田辺店長より3歳年下なのだが、小柄で妊婦のように腹が突き出た中年体型をしており、店長より年上に見える(貫禄があると言うべきか)。非常に濃い顔なので好き嫌いはあると思うが顔立ちは整っている方だ。しかしなぜかイケメンという印象は受けない。

 この二人は外見だけでなく性格も正反対だった。店長は積極的に新しいことをやりたがりアイデアを出すのだが、専務は変化を好まず、店長の提案を大抵却下、もしくは「副社長に聞いてみる」と言ってそのままにする。いくら待っても返事がないので「副社長に聞いていただけましたか?」と店長が尋ねても「まだ聞いてない」という返事が返ってくることが多い。店長としてはどんどん新しいことをやって実績を上げて副社長に認められたいのだが、何をするにも専務がネックとなって動けないのでイライラしている。そのため専務を通さず、副社長と直接話をする機会を伺っていた。そんな時副社長がハマっていた自己啓発セミナーの合宿に従業員を参加させる計画があがり、副社長と共に店長も同行することになった。

 従業員のモチベーションを上げるという目標を掲げたこの合宿は、聞いたところみんなの前で自分の恥ずかしい事を大声で話すなど人格を無視したようなカリキュラムが組まれていて、新興宗教のマインドコントロールを思わせた。3日間の最後には全員号泣するそうだ。異常な精神状態になっていたことが伺われる。この怪しげな合宿に従業員全員を一度に連れて行けば業務に差しさわりが出るので、1回で2人か3人が参加することになり、副社長と店長は付き添いとして毎回参加した。ここで副社長と店長は意気投合し、個人的に親しくなったようである。店長はセミナーを開催するA社の女社長にも気に入られ、しゃべりの才能を買われてトレーナーとして月3日の副業をすることになった。副社長公認なので店長はこの副業を休みの日に入れるのではなく、仕事として予定に入れ、A社の若いトレーナーとの飲み会の費用や女社長への誕生日プレゼントの代金も全部会社に請求していた。

 1年ぐらいかけて従業員を全員合宿に参加させた後も女社長は店長に頻繁に電話をかけてきて、従業員を2度目のセミナーに送り込むよう圧力をかけた。しかし1回の費用が十数万かかり、合宿から戻った従業員は最初こそやる気満々で頼もしかったが、1週間もするといつもの状態に戻り、副社長の熱意も次第に覚めていったのでセミナーへの参加は途絶えていった。店長だけがトレーナーとして毎月参加し、A社とつながっていた。

 一時副社長と親しい関係になり、専務より上もしくは同等の立場になるという夢に近づいたかに思えたが、副社長の専務に対する信頼は揺らぐことなく、専務に代って店長に大きい仕事を任せるということはなかった。店長にとってA社での副業は楽しかったが本業は日々つまらないものとなり、専務に対する愚痴もはばかることなく漏らすようになった。専務と店長には会社の車が貸与されていたが、専務がレクサスなのに対し店長は庶民的なスイフトなのも気に入らず、一度レクサスの使用を専務に願い出たが断られたのを根に持っていた。毎日が面白くない店長の一番のストレス解消の手段は部下に説教することだった。

 田辺店長は自他ともに認めるしゃべり好きで、「黙っていると死んでしまう」と冗談を言うほどよくしゃべっていた。特に人前でスピーチをすることや目下の人間に対して自分の考えを押し付けるような話が好きで、忙しい従業員をつかまえては喫煙所に連れて行き長々と説教をしていた。短くて30分、長い時は2時間以上。内容は“なぜ○○がちゃんとできないのか”というものが多い。この○○というのは元々店長の仕事だったのだが、あきっぽい店長がいやになって部下に押し付けたものだ。自分でもうまくできなかったのに部下がそれをできないと許せないらしい。最初の頃説教の標的にされていたのは中島主任だった。博学で頭脳明晰な中島主任は物腰柔らかで穏やかな口調ではあるが、時々店長の話の矛盾点を突く言葉をボソッと発する。反論されることに慣れていない店長はむきになり、声は大きく興奮気味になってこじつけ的な理論を熱弁する。店長に逆らうと説教がますます長くなるので、ある時期から中島さんは「はい」と「そうですね」しか言わなくなった。余計なことは言わず、少しでも早く解放されるためだ。延々と続く説教を聞いている中島さんの大きな目は虚ろで虚空を見つめていた。

 誰かが説教されている間も他の従業員は気を許せない。店長は説教の途中でも次のターゲットを見つけると「お、仲田! お前配達終わったら来い!話がある」と呼び止めるからだ。だからみんななるべく店長に見つからないようにコソコソ動く。説教の対象にならないアルバイトの陰に隠れて移動したりする。

 やっと解放された犠牲者はよく事務所で感情を爆発させた。「なんでできないかって? アンタだよ、アンタ! アンタがこうやって時間を奪うからできなくなるんだよ!」もっともだと事務所にいる全員が同情する。集中力がない店長は面倒くさいことはどんどん部下に振る。すると時間ができるのでほとんど趣味ともいえる説教を始める。説教された部下は時間がなくなり仕事が追い付かず、ますます店長に説教のネタを提供してしまう。なんという理不尽な悪循環。店長のせいで忙しくなる一方の中島主任を補佐するため、横浜の店から田中主任が家族とともに赴任してきた。しかし田中主任は明るくて真っ直ぐな好ましい性格ではあるが仕事は中島主任ほどできない。すると店長のターゲットは田中主任に移った。毎日毎日飽きもせず、喫煙所で拷問ともいえる説教が続く。喫煙所の前を通ると店長は中島主任をベタ褒めし、中島主任を見習うように話している。田中主任が来る前は中島主任をけちょんけちょんにけなしていたのに… 

 店長は説教ができれば相手は誰でもかまわない。内容も適当でいいのだ。時々事務機器の営業マンが事務所にやって来たが、専務は以前から付き合いのあるD社以外と取引する気はない。だから何度来てもらっても結果は同じなのだが、専務がいない時に店長は営業マンを喫煙所に連れて行き、もっと頻繁に来て顔を売らないとだめだとか、笑顔で話せとか、1時間以上も延々と講釈をたれていた。哀れな営業マンはその後頻繁に来るようになったが、専務がこの会社と契約を結ぶことは一度もなかった。外部の人間が店長の気まぐれな発言に振り回されるのは、本当に気の毒で申し訳ないことだった。

 このように上から目線で一方的に話すことが大好きな店長にとって社員会でのスピーチは何より楽しい時間だ。副社長も同席しているので妙に張り切って、昔の学園ドラマの熱血教師のようなノリでしゃべり続ける。当然時間は長くなるのだが、従業員は皆早く帰りたいので話が長いのは好ましくない。事務員は社員会に参加しないが翌日従業員からの不平を聞いている。武田さんが専務に「店長の話長すぎるよ。みんな疲れているから早く帰りたいのに、あれじゃかわいそう」と進言したのだが、久木田専務の判断力のなさは恐るべきもので、店長の長すぎる無駄話を“避けるべきこと”ではなく“かっこいいもの”と思ってしまったのか、それとも単に店長と張り合おうとしたためかはわからないが、専務も店長に負けず劣らず長い話をするようになってしまったのだ。専務の話の途中、うんざりした従業員がラインで「こんな社員会、クソだ」と自分の奥さんにメールしたつもりが間違えて専務にも送られてしまうという事件が起きた。これを見た専務のショックは相当なものだったらしく、その後専務と飲みに行った従業員の話だと、心の内を明かした専務の目は涙ぐんでいたという。これを聞いた店長は楽しそうに専務をあざ笑った。確かにこんなことぐらいでショックを受けるのは管理職として情けないことではあるが、もとはと言えば店長が発端だというのに自分を顧みることなく人を笑いものにするとは、あまりいい気分がしなかった。

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