田辺店長が入社した時、私はパートで週3日だけの出勤だったので店長と話す機会があまりなく、なんとなく近寄りがたい存在だった。正社員に昇格した時すでに武田さんと店長はかなり親しくなっており、最初は二人の会話に加わるのも気が引けて自分が部外者のように感じられたが、店長の気さくな性格のお蔭ですぐに打ち解けることができ、私をなにかと敵視する武田さんがいるにもかかわらず、普段は楽しい雰囲気で仕事をすることができた。私は専務には敬語で話したが、店長は親しみやすいお兄ちゃんといった感じなので敬語をやめてしまい、上司であるにもかかわらず、武田さんと同じようにため口で話すようになった。
店長は事務員の仕事内容を細かく把握していないので、送られてきたファックスを武田さんに渡すべきか私に渡すべきか分からないことが多く、「これは、どっち?」とファックスの近くにいる私に尋ねた。普段なら「それは武田さん」とか「私」とか答えるのだが、武田さんと険悪なムードになっている時は「武田さん」と名前を口に出すのもいとわしく、無言で武田さんを顎で指し示すという、今にして思えばかなり偉そうな態度を取っていた。店長は礼儀にうるさい方だが私の無礼な態度に文句も言わず、「あ、はい」と言って武田さんにファックスを差し出した。武田さんも一言の礼も言わず無言で受け取る。私と武田さんの冷戦モードを感じ取ったのか、店長は静かに背中を丸めて自分の席に戻る。男性従業員の前では暴君のように振る舞う店長だったが、女性が相手の時は穏やかで優しかった。お客さんから甘夏をいただいても「皮をむくのが面倒くさい」と言えばいそいそとむいてくれた。日頃こんなことをしてもらうことのない私が感激すると「お二人のためならこれぐらい喜んでやりますよ」と嬉しいことを言う。さすが元ホストだ。
事務所に私と武田さんの二人しかいない時、配達の遅れがあってお客様からの問い合わせの電話が殺到したことがあった。武田さんはそんな時でも電話に出ない。“そんなの私の仕事じゃないわよ”といった涼しい顔で黙々とパソコンのキーボードを打っている。私が次々とかかってくる電話に辟易していると店長が外から戻り事務所に入ってきた。するとどうしたことか、武田さんは急に電話に出るようになった。私よりも早く取るので私が出られなくなるほどだ。店長も積極的に電話を取る。「どっちがたくさん取るか、競争だ!」と店長が言うと武田さんが「うふふ、負けないわよ」と楽しげに答える。(何なんだ、これは)と私はあっけにとられたが、鳴り続ける電話から解放されてホッとした気持ちの方が強く、(勝手にやってくれー)と心で吐き捨て、電話のせいで遅れてしまった仕事に集中した。
店長が店に来たばかりの頃、「新しい店長はイケメンだから事務員さんたちはドキドキするんじゃないですか?」と中島主任が尋ねたことがあった。これに対し武田さんは「私のタイプじゃない」と冷ややかに答えていたが、やはりイイ男には良く思われたいし独占したいのだろう。私が店長と親しくするのが気に入らないようで、ある時、私が店長と話す時は声が違うとおっかない顔で言ってきた。そして「安部さんもあなたと店長が話してるところには入り込めない感じだって言ってるわよ」と付け加えた。私はそんなことは全く意識していなかったが、武田さんや安部さんに対する話し方と店長に対する話し方が違っていたとしても別に不思議ではない。それは男だから女だからということではなく、自分に対して散々意地悪をしてきた相手、今なお敵意をぶつけてくる相手に対して完全に打ち解けることなどできるはずもなく、一方そのような敵意は微塵もなく好意的な友情のみを示してくれる相手には心から打ち解けた態度で接するものだ。武田さんは普段「安部さんの言う事はいい加減で当てにならない」と言っておきながら、私を批判する時はいつも安部さんと連名だ。「安部さんも言ってる」と武田さんはよく言うが、(そういう話は武田さんとしかしないから安部さんがそんなこと言うはずないんだけど)と思うことが多い。たぶん武田さんが言い出したことに安部さんが例によって「そうそう」と調子を合わせただけという気がする。
しかし店の平安のために店長とは少し距離を置いた方がいいと思う事件が起きた。武田さんは日常的にカッカしているので、その時の怒りの原因が何だったのかは覚えていないが、武田さんが何かの事で怒っているのを見て、私と店長は(また始まった)という思いで目くばせをしてしまった。たぶん武田さんはこれに気づいたのだろう、突然黙ってものすごい形相で席を立ち、ドスドスと足を踏み鳴らして喫煙所に行った。しばらくして戻った時も無言だったが、通常の怒りとは比べ物にならないほど激しく怒っているのは誰の目にも明らかだった。武田さんはお昼は大抵コンビニなどで買った弁当を事務所で食べるのだが、その日は12時になると「食事に行ってきます!」と怒鳴って出て行った。店長は「なに?あれ。どうしちゃったの?」と困惑している。この嵐は数日おさまらなかった。
孫が数人いるとはいえ、ジャニーズの若い男の子が大好きな武田さんはいつまでも「女」なのである。若い頃は大層もてたそうだが、今でも男性からチヤホヤされたいし、自分が仲良くしている男性が他の女とも仲良くするのも気に入らない。こういう女性の心理を熟知している店長は武田さんを呼ぶ時、苗字ではなく下の名前で「麗子さん」とか「麗子姫」などと呼ぶようになり、武田さんの若さを褒め、武田さんの年齢は恋愛対象の範囲に余裕で入ると女心をくすぐる言葉を言い続けた。武田さんも6歳下のイケメンに日々このように持ち上げられれば機嫌よくなり、店長が業務とは関係のない交通費の領収書を出してきても実に気持ち良く「はい」と笑顔でお金を渡すのであった。そして店長が事務所を出ると「ちょっと、今のおかしいよね。なんで○○に行った高速代をうちが払わなきゃいけないのよ」と眉間にシワを寄せて文句を言う。「そう思うなら、なんでお金出したの?」とは口が裂けても言えない。また激しい嵐に襲われてしまう。だから「ホントだよね。A社に請求すればいいのにね」などと適当に同調する。こういう時、自分が安部さんに似てきたのを感じてしまうのだった。