これでも専務

人間

 横浜の店から赴任してきた久木田専務は、専務とは名ばかりの頼りない人だった。武田さんの尻にひかれて言いなりになっているだけでなく、どんなに些細な事も一人で判断することができず、必ず誰かに意見を求めなければ処理できなかった。それは独善的にならないように部下の意見も聞くという立派なものでは決してなく、単純に判断能力がないため自分で決定できないだけだった。

 例えば集金パートさんが支給されたジャンバーが少し大きかったので交換してもらえないかと聞いてくると、専務は少しの迷いもなく横浜にいる副社長に電話して判断を仰ぐ。ゼンリンの新しい住宅地図を買ってもいいかと聞けば「中島に聞いてみる」と主任の名前を出す。専務が誰にも頼らず自信をもって指示できるのは、横浜の店でやっているのと同じことをやる場合のみで、最初の頃の口癖は「横浜ではそうしている」だった。武田さんはよくこの言葉にイライラして「横浜で通用してもこっちじゃ通用しないこともあるのよ。なんで横浜に合わせなきゃいけないのよ!」と納得いかない様子だった。

 横浜にいる副社長はこちらの店や地域の事情をあまり知らない。そのため細かいことで一々電話をかけてこられてもわからないことが多いので「自分で判断して」と言うこともある。そういう時の専務の苦悩は計り知れない。両手で頭を抱えて「そう言われるのが一番嫌なんだよ…」と呟く。しかしすぐに頭を上げ、受話器を取ってあちこちに電話をかけまくる。「そちらで判断してください」が続くと、最後はライバル店に相談する。「うちは断りましたよ」と言われてやっと安堵し「うちもそうします」と晴れやかな表情で受話器を置く。なぜこの人が専務になれたのだろうと皆が不思議に思う。

 専務が毎月集金に行く家で、行く前に電話をしなければならないところがある。その場合、電話番号を登録しておくとかメモしておくのが普通だと思うのだが、彼は毎回出先から事務所に電話をかけてきて「○○さんの電話番号教えて」と聞くのであった。そのくせ物覚えの悪い部下には「覚えられないならメモを取れ」と威厳のある態度で教え諭す。「どの口が言ってるんだよ」と武田さんが陰で笑う。

 事務所の金庫を買い替える計画があり、専務は近くのホームセンターに見に行ったが、事務所に電話をかけてきて「今の金庫の品番教えて」と軽く言った。私がどこを見ればそれが分かるのかと聞くと右側面と答える。金庫はそれがピッタリ治まる専用のスペースに置かれていて、側面を見るためには金庫を引っぱり出して移動させなければならない。私は力はある方だが、100キロぐらいある金庫はちょっとやそっと引っ張ったぐらいではびくともしない。あまり人に見られたくない格好だが両足を思い切り広げて片膝を床につき、ありったけの力を込めて金庫を引っ張った。金庫は動いたが踏ん張った時にビリビリと音がした。スカートの裏地が裂けたのだった。

 お気に入りのスカートだった。昔から好きだったエンジ色のチェックのスカートで、十年以上前に買ったものだが大切にしていた。なぜ私がこんな犠牲を払わねばならないのか、なぜ専務は出かける前に自分で調べておかないのか、なぜこんな力仕事を電話一本で女にやらせようとするのか、恨みはつのった。このようなことがあるたび私は一度専務からスマホを取り上げて半年ぐらいスマホなしの生活をさせてやりたいと思った。そうすれば安易に「電話して聞けばいい」という発想がなくなり、もっと計画的に行動できるようになるのではないかと。

 しかし専務の計画性のなさはかなり年季が入っているようにも思える。期限のある仕事は大抵遅れ、関連会社からの「もう締め切りは過ぎてるんですけど」という苦情の電話は毎度のことだ。年に一回集金に行く所へは2、3年過ぎても行かず、武田さんにいくら催促されても「あそこはいつ行ってもくれるから大丈夫」などと寝ぼけたことを言うが時間がたてばたつほど行きづらくなり、さすがに6年もするとお客様に怒られること必至だったので専務は行って怒られるより自腹を切る方を選んだ。すぐにやってしまえば後が楽なのにと周りが思う仕事を、専務はいつもギリギリまでやらない。先延ばしすることが習慣になっているらしい。記憶力があまりいい方ではないのでそのうち忘れてしまい、クレームの電話を私が受けることになる。

 こういう人の常として、部屋は散らかり放題である。専務の部屋は応接間と兼用で昼休みに私が弁当を食べる部屋でもある。12時になると専務が事務所に入り私が応接間に行って食事するので、部屋が汚くなっていく過程を日々観察していた。応接間に専務の机が置かれると、その上の書類ケースには未処理の書類が山積みされていった。それが少し触れるだけで雪崩のように崩れ落ちる高さにまでなると、紙袋や段ボールに入れて床の上に置くようになった。これがいくつかたまるとさすがに整理しなければならないと思ったらしく、ホームセンターでボックスを買ってきたが、このボックスも買い物袋から出されることもなく床に置かれたまま数年が過ぎる。床に置かれるのが書類だけならまだしも、読み終わった新聞、誕生日に副社長から贈られた日本酒、従業員からのお土産、もらいものの試供品の洗剤セット、バレンタインデーに行きつけの飲み屋でもらったチョコレート等、大量の私物が混ざるようになった。社長や副社長が来る時にはあせって片付けるのだが、自宅に持ち帰るべきものを持ち帰るとか、処分すべきものを処分するなどということができないらしく、ただ広く床に散らばった荷物を上に積み上げるだけである。底面積は少なくなっても高さが増えるので体積は変わらない。増え続ける荷物はやがてソファーと壁の間にも押し込まれるようになり、応接間はますます倉庫の様相を呈してきた。

 専務が自宅から持ちこんだ小さい冷蔵庫には専務が自分で買ってきたおかずやジュースなどが入っていたが、この冷蔵庫に入ったものの大半は忘れ去られ、数ヶ月、あるいは数年放置されたままとなる。たまに整理して古いものを捨てることもあるのだが、それは燃えるゴミに分類されるものだけで、ビンに入った塩辛などはどう処理していいのかわからないためか、再び冷蔵庫に戻している。賞味期限が2年以上過ぎているのだが… 私が見かねて片付けることを期待しているのだろうか。だとしたらその考えは甘い。私は猫は甘やかすが人間には厳しい。自分でやるべきことを私がやってあげたら本人はいつまでたっても成長できない。体は中年のオジサンでも中身は甘ったれの子供のままだ。高校生になっても魚の骨を母親が全部取ってくれたという経歴を持つ専務には、さぞかし私が気の利かない役立たずの従業員に思えたことだろう。

 応接間にあるテレビには録画と再生の機能があり、私はいつも家で録画しておいたドラマをブルーレイにダビングして弁当を食べながら見るのだが、たまにブルーレイをバッグに入れ忘れることがあった。テレビを見ながら食事するのが長年の習慣となっている私は何か見ようと思うのだが、リアルタイムでやっている番組に面白いものがなかったので、テレビのHDに録画されている番組を調べてみた。すると専務が録画した大量の番組が出てきた。「暴れん坊将軍」や「科捜研の女」などの再放送のドラマや最新のドラマ、「行列のできる法律相談所」などのバラエティー、スポーツ等様々なジャンルの番組が一日数本録画されている。その中の一つを見ながら食事しているとドアをノックする音が聞こえ、専務が「失礼します」と入って来た。何か机の上を探しながら何気なくテレビの画面を見るとギョッとした表情になり、無言で部屋を出たがすぐに戻ってきて「自宅のテレビで同じ番組を録画してあるんだけど、万が一録画し忘れてもいいように会社のテレビでも録画しておくんだ。だから会社で録画したのはほとんど見ないで削除してる」と、聞かれもしないのに言い訳していった。

 しかしこの「会社で録画したのはほとんど見ない」はかなり怪しい。応接間は二階にあり、専務は階段を上る足音が聞こえるとそれまで見ていたテレビを消すという噂は前からあった。確かに私が昼休みテレビをつけると音が極端に小さくなっていることがよくあった。誰かが上がってくる気配を敏感に察知してテレビを消すためだと考えられる。中島主任は応接間に専務を呼びに行く時は気を使ってわざと大きい足音をたてるそうだが、私はそれに異議を唱え「そーっと行っていきなりドアを開けなよ」と意地悪な提案をしていた。

 ある時応接間に忘れ物をしてしまい、私は別に足音を忍ばせたわけではないが音があまりしない靴を履いていたので静かに階段を上り、ドアを2回ノックして「失礼します」と声を掛けて入ると、ソファーに座っていた専務があわてて立ち上がり、「なに? なに?」と私の方に駆け寄ってきた。私が「印刷機のコードを忘れてしまって」と言うと、ご親切に印刷機のまわりを探し始める。普段腰が重く、目の前にあるものなら取ってくれるが、そうでない時はまちがっても自分から動くことなどしないのだが… テレビは奥のソファーの方に向いているので、ドアのあたりからはテレビがついているのかどうかは見えない。だから私を入口付近に留めておくために専務は自ら動いたのだと思った。ソファー前のテーブルの上にはノートパソコンが開いてあって、いかにも仕事をしていたという様子だが、パソコンはコンセントに接続されていなかった。私が知る限りそのパソコンは半年以上コンセントから抜かれた状態で、バッテリーは完全に空になっていたはずだ。もしかしたら私がドアをノックして開けるまでの間にテレビは消されていて、専務が私から隠そうとしたのは真っ黒なパソコンの画面だったのかもしれない。専務と安部さんは似ている。安部さんが仕事している振りをしてサボっているのを専務が咎められないのは、自分も同類だからなのだろうか。

 このような人が専務という役職について高給をもらえるのは、ひとえに運がいいからとしか言いようがない。専務と一緒に横浜の店から赴任してきた中島主任の話では、事業拡大で忙しくなる直前に幹部だった人が数人辞めてしまい、その少し前に入社した久木田さんしか使えそうな人がいなかったのでタイミングよく専務になれたらしい。本人の話を聞くと、たまたま買った宝くじで10万円当たったとか、よく前を走っていた車が警察のネズミ捕りにあうが自分は一度もないなど、かなりの強運の持ち主であるように思える。私は以前のブログでナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌの運の良さは人を憎んだり恨んだりすることのない楽天的な性格によるのではないかと書いたが、この久木田専務も怠惰ではあるが人の悪口は決して言わない、さっぱりした性格だった。こんな所が幸運の神様に好かれて助けられているのかもしれない。

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