安部さんは入社した時期が武田さんとほとんど同じで、年も一つしか違わないので気が合うらしく、仕事中もよくしゃべっていた。安部さんは武田さんと違ってきちんと挨拶するし、最初は親切だったので頼りになる先輩だと思っていたが、実は人に合わせて言うことがコロコロ変わるタイプだった。そのため私が入社してしばらくすると、私に敵意を燃やす武田さんに調子を合わせて、同じような態度をとるようになっていた。
安部さんは仕事中よくお菓子などを買ってきた。「武田さん、これ好きだったよね」と武田さんには気持ち良く渡し、私には不機嫌に「ほら!」と品物を突き出す。(あげたくないけどあげないわけにいかないから、いやだけどくれてやる)という気持ちが露骨に表情に表れていた。私は内心非常に不愉快だったが笑顔でお礼を言い、「おいしいです~」と喜んでいる振りをした。
いつも貰うばかりだと悪いので、珍しく外に出たついでにコンビニでシュークリームを買って行った。武田さんは相変わらずお礼も言わずムシャムシャ食べていたが、安部さんは怒ったように「いくら?」とシュークリームの値段を聞いてきた 。私が「いつもご馳走になっているから、いいですよ」と言っても、財布を出して払おうとする。私は貰うわけにはいかないから「たまにはご馳走させてくださいよ」と言ってお金は受け取らなかった。すると安部さんもシュークリームを受け取らず、退社時間になってもそれは安部さんの机のすみにポツンと置かれたままだった。
翌朝出社すると、100円が私の机の上に置かれていた。シュークリームの代金だ。シュークリームは無くなっている。常温で置きっぱなしになっていたものを食べたはずはなく、捨てたのは間違いない。堪忍袋の緒が切れた。
その頃は店のこと全てを安部さんが把握しており、何かあれば専務も武田さんも安部さんに頼っていた。無論入社したばかりの私も、安部さんに聞かなければ分からないことが多かったので、気まずい関係になるわけにはいかず、ずっと我慢していたが、もう限界だった。争い事は好まないが不当な仕打ちを我慢するほどお人よしではない。売られた喧嘩は買わねばならない。
その日から、私は安部さんが私に対するのと同じ態度で、安部さんに接するようにした。最低限必要なことだけを無表情で、しかし目には隠し切れない憎しみをたたえて話し、話し終えると口を軽くへの字にするといった感じだ。
私の態度が一変したので、さすがにやりすぎたと思ったのだろう、安部さんの態度が和らいできた。ある日アイスを買ってきて私の机の上に置き、「溶けないうちに食べな」と、いつもとは打って変わって優しい言い方をする。私は当然食べるつもりはないので、アイスはその辺にいた従業員にあげてしまった。また別の日にはカップ入りのソフトクリームを買ってきたので、私はぶっきらぼうに「いくらですか?」と、いつぞやの安部さんと同じ質問をした。安部さんはやはりあの時の私と同じく、「いいよ、いいよ」と言って事務所を出た。
私は食べることが大好きな武田さんに、ソフトをもう一個食べないかと聞いてみたが、もうこれ以上は食べられないと言う。今回は私の代わりに食べてくれそうな人がその辺にいない。さて、どうしたものか。安部さんはあの時私の机に100円を置いて、私からは物を受け取らないという態度を示した。私もそれと全く同じことをしたいのだが、シュークリームと違ってカップ入りのソフトには値段が書かれていない。300円ぐらいか? 足りなかったら陰で何と言われるかわからないから500円置いておこうかと悩んでいると安部さんが再び事務所に入ってきた。手が付けられていないソフトを見て、「溶けちゃうよ」と言ったが、私は返事をしなかった。袋に入ったシュークリームなら、机の上に置きっぱなしで帰るが、ソフトをそのままにはできない。仕方がないので半分溶けたソフトを事務所の流しに捨てた。その時安部さんは事務所にいなかったが、どうせ武田さんが一部始終を安部さんに話すだろう。ソフトの代金を払うことは出来なかったが、私が一口も食べなかったことを安部さんが知れば、それで良しとしよう。
このシュークリーム事件以後、安部さんだけでなく、武田さんの私に対する態度も少し変わった。私がやられっぱなしで何もできない、おとなしい女ではないことが分かったからだ。反撃してくるかもしれない相手には、うかつに手は出せないのだろう。いじめっ子は案外気が弱いものだ。