安部さんは事務員として入社したはずだが、どうも事務仕事は嫌いなようで、武田さんの話だと昔から何かと理由をつけて外出し、事務所にいる時間は短かったようだ。これを不服としていた以前の経営者はよく武田さんにそのことを愚痴っていたそうだ。
ここに来る前私が勤めていた会社の会長夫人もそうだったが、従業員の明らかに悪い点を決して本人に注意せず、本人がいないところで他の従業員に愚痴をもらすという、なんとも奇妙な現象だ。これは地方の会社に特有のことなのだろうか。武田さんから話を聞く限りでは以前の経営者は決して気が弱い人ではなさそうだ。店に支払いに来たお客さんの話し声がうるさくて電話が聞き取りにくかった時など「うるさい! 静かにして!」と客に怒鳴ったそうだし、面倒くさいことは必要があっても決してやらないので、取引先の人が困り顔で「ちゃんと調べておいてください」とお願いしても返事もせず追い返したそうだ。これほど自我が強い経営者だったが安部さんに「事務所にいて仕事をするように」とは言えなかったらしい。そのため2,3日中に処理しなければならない仕事が数ヶ月分たまっていたという。
経営者が変わって仕事の大半をパソコンで処理するようになると、パソコンができない安部さんの放浪癖はさらにひどくなった。安部さんには毎日荷物を市内の支店に運ぶという仕事があったが、他の人が行けば30分で行って帰ってこられるところを2時間もかけていた。事務所に戻ってくればお菓子を食べ、おしゃべりをし、またよく居眠りもしていた。
一方、武田さんは経営者が変わってからは経理だけでなく事務の大半をやることになり、非常に忙しかった。そのために事務パートを募集して、私が雇われることになったのだ。忙しい、忙しいと頻繁に愚痴をこぼすので「何か私にできることはありますか?」と何度か聞いてみたのだが、その都度「電話だけ出てくれればいい」という返事が返ってくるので、武田さんの忙しさはあまり変わらなかった。そのため仕事中遊んでばかりいて、しかも自分より多く給料を貰っている(経理の武田さんは従業員全員の給料を把握している)安部さんに対して、武田さんは苛立ちを覚えるようになっていった。安部さんが仕事中友人の家に行ったとか美容院に行ったなどと自分から自慢げに話したというが、それが武田さんの怒りに火をつけた。元々決して穏やかな性格ではないが、些細なことで頻繁に怒るようになり、常に機嫌が悪くイライラしていた。これは事務所の雰囲気を最悪なものにし、見かねた店長が専務に進言して一席設け、武田さんの不満を専務にぶちまけさせた。その結果武田さんの給料は安部さんより上がったが、専務も安部さんに何の注意もできないので、状況は全く変わらなかった。この頃わかったことだが、専務が物を言えないのは武田さんに対してだけでなく、年上の人間には大抵、言うべきことが言えないのだった。
安部さんが話しかけても、武田さんはつっけんどんに一言二言返すだけになった。以前なら忙しくてもたいがい長いおしゃべりに発展したが、今は会話を続ける気がないのが傍で聞いている私にもよくわかった。私もシュークリーム事件以降安部さんにはずっと冷淡な態度を取っていたので、安部さんは孤立した。
女が三人集まると非常に奇妙な現象が起こる。武田さんは安部さんに冷たくすると同時に、私に優しくなった。あれほど嫌っていた私に仕事以外のことでも話しかけるようになり、特に安部さんの悪口になると、昔から仲が良かった友達同士のように会話が弾んだ。事務所には専務や店長がいることもあったが、大抵は武田さんと安部さん、私の三人だけだったので、二人から冷たくされれば、安部さんはさぞかし居心地が悪かったことだろう。少し前の私がそうだったから、とてもよくわかる。
私が入社した頃、店は必要な情報を一部の人間が独占し、その人に一々聞かなければ仕事が滞るという状態だった。そのためかなりの情報を握っていた安部さんの立場は強く、専務も店長も武田さんでさえ頻繁に安部さんに聞かなければならず、安部さんが外出している時に問い合わせの電話があっても「わかる者が今席を外しているので戻りましたら折り返しご連絡します」などという情けない対応をしていた。私はどう考えてもこれはおかしい、なんとかしなければと思い、パソコンのデータを基に、お客様からの電話を記録したノートを全部ひっくり返し、ゼンリンの地図とにらめっこしながら、必要な情報を表にしたりファイルを作ったりして誰もがわかるように、仕事をスムーズに処理できるようにしていった。日頃私のことをよく思っていなかった武田さんも「これがあるとすごく助かる」とか「このお蔭でお客さんを待たせなくてすむようになった」などとほめてくれたので安心し、ほかにも改善点を見つけて対処法を模索した。どんなに便利でも「パートごときが出過ぎた真似をして」と女王様のご機嫌を損ねるならやめようと思っていたが、女王様はいたくお喜びのご様子なので続けることにした。安部さんが孤立するようになった頃にはかなりのことが安部さんに聞かなくても済むようになっていた。
安部さんとしては事務所での仕事があまりなくても、お菓子を食べながらおしゃべりして時間をつぶしていればそれでよかったみたいだ。事務所に専務や店長がいる時だけは無意味に電卓を叩くなどして仕事してるふりをしなければならなかったが。しかし武田さんは安部さんと話すことを拒否するようになり、私もシュークリーム事件以降、安部さんには拒絶反応を示している。以前は何かと頼りにされていたがその頃はそうでもなくなり、おそらく自分の居場所がないと感じていただろう。
この現状をなんとか打破するため彼女は武田さんよりはなびきやすそうな私に歩み寄ってきた。私は立場上、話しかけられて完全に無視することは出来ないので、無表情のままではあるが、多少相手をするようになった。安部さんは普段から関係を維持したい相手には物を贈る習慣があるのだが、その年のクリスマスには高価なものではないが私にプレゼントをよこした。口には出さなかったが、たぶんシュークリーム事件の謝罪の意味もあるのだろう。そこまでされていつまでも根に持つのもよくないので、私も過去の事は水に流すことにした。
しかし私ごときパート従業員と和解しても、肝心の女王様から嫌われたままでは安部さんの居場所はない。数日後の大掃除の時、安部さんは正月配布用の荷物を作るのに忙しく、事務所に入ってきた時には掃除はもう半分以上終わっていた。武田さんはどことどこが終わっていてどこがまだといったことを一切教えず、黙々と雑巾がけをしていた。安部さんは所在無げに私がやっていた下駄箱掃除を手伝った。そして武田さんが帰ったあと、悲壮な面持ちで「もうこれ以上やっていけない。会社を辞める」と私に伝えた。私は一応「安部さんに辞められたらみんな困るよ」と言っておいたが、確かにあの状況では会社にいるのは辛いだろうし辞めるのが一番いいと思った。
しかし年が明けると、会社は辞めずアルバイトとして続けると言い、またしばらくすると今度は準社員になると言ってきた。仕事内容は変わらず朝の8時から午後2時まで働くのだそうだ。私は代わりに週休二日で9時から6時までの正社員になった。安部さんの給料は十万ほど下がったというが、それでも私の給料より多いらしい。勤務時間が短くなっても正社員より多く給料が貰えるのだから、かなり恵まれている。専務は前の経営者の時からいた武田さんと安部さんの給料は下げることはせず優遇していたが、新しく雇った私の給料は非常に低く設定した。おそらく武田さんの半分だ。まあ、それぐらい差をつけないと武田さんのご機嫌が悪くなってしまうので仕方ないのかもしれないが…